2009年12月25日金曜日

水野有庸先生のこと <ライネケ院長>

最近、ある本を入手した。
その本は、昨年三月亡くなった人の追悼文集のようなもので、ライネケは、Amazonのインターネットショップを通じて手に入れようとしたのだが、随分長い間待った挙げ句、結局在庫がなくて、ある方にご無理をお願いして一冊譲って頂いたのだった。

「ラテン詩人 水野有庸の軌跡」

『ラテン詩人水野有庸の軌跡』編集委員会編
2009年3月11日 大阪公立大学共同出版会 発行


ライネケは、ご無理をお願いした方に礼状を書いた。

礼状は、ご本を送って下さった方への感謝だけでなく、すでに天に昇られ、天国でウェルギリウスやオウィディウス、ホラーチーウスたちとラテン語で会話を交わしておられるであろう水野先生への、不出来な弟子の遅まきながらの感謝を表すものである。天国に届くポストがあればいいのに。

なつかしい水野先生の人生最良の時

思えば、故水野有庸先生との出会いは、私の人生にある種の影響を与えた出来事の一つであった。ここに、先生の思い出と先生への感謝を記すことは、それなりの意味があろうと思ったのである。

写真と赤字のコメントはあとからの追加である。

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拝啓

本日、「ラテン詩人水野有庸の軌跡」のご本とディスクを受け取りました。電話で差し上げた私の厚かましいお願いを、このように早く、聞き入れて頂いたことに、とにもかくにも、感謝申し上げたいと思い、筆をとりました。

皆さんがあの本にお寄せになっておられるようなお気持ちと重なるので、今さらと、うるさくお思いになられると思いますが、あえて、書き綴る次第です。

 私は、昭和47年、京大医学部に入学して、昭和53年卒業しました。その後、各地の病院に皮膚科医として勤めたあと、4年前より、郷里の愛媛県に戻って、自宅で皮膚科の小さな医院を開業して暮らしています。

水野先生の授業を受けたのは、昭和48年の春からでした。私は医学部の教養部の二回生でした。文学部の教務受付に行って、ラテン語4時間コースを医学部の学生が受けることができるのか、と質問に行きました。「ああ、もちろん受講できます。単位も取れますよ。」と言う事務官が微笑を浮かべたような気がしました。そして、いよいよ、授業が始まって、事務官の微笑の意味が分かった気がしました。

五月開講初日のノート第1ページ目。ラテン文字とイタリア半島

夏休みが終わって、後期の最初の授業に出てみれば、開講時30人前後いた前期受講生のうち生き残ったのは、なんと、たったの2人に過ぎず、前年の挫折組3人ほどが加わって、5人ほどで授業が続きました。

私は、教養部二回生でしたから、ラテン語のほかに、英語、ドイツ語とフランス語の授業も受けておりました。でも、一年間というもの、自宅学習のほとんどの時間はラテン語の予習に費やしました。英独仏は片手間で受講したような感じでしたが、全部楽々と優をいただきました。でも、ラテン語の授業は本当に苦しかったです。

最初の授業のラテン語の発音例で、先生が、ウェルギリウスやオウィディウス、ホラーチーウスの詩を板書なさり、例の調子で、朗唱をされ、初めて聞く古典ラテン語の響きにびっくりもし、感動もしたこと、日が短くなって、夕方6時ころ、懐中電灯をつけてトイレに行き、パンをかじって授業を続けたこと、毎回、夜8時を過ぎて、すでに施錠された本学の北門を乗り越えて、今出川通を下宿に帰ったこと、いよいよ後期になり、もうカエサルとキケロの散文とホラーチーウスやウェルギリウスの詩の和訳だけで手一杯で、詩のreconstructionにまでは、まったく予習の手が回らず、授業では、仏文科の女性が黒板で回答を書くのを唖然として眺め、先生がそれを直すのを、ノートに写すだけ、という状態に追い込まれたこと、そんなことを昨日のように思い出します。

完膚なきまでに朱の入った予習ノート。HORATI FLACCI CARMINUM LIBER Ⅰ  greater asclepiad 「賢くあれ。葡萄酒を漉し、時間のけちくさい限度内なのだから、長過ぎる希望は切り詰めよ。我々が今こうしてしゃべっているうちに人生の時間は逃げて行ってしまっているだろう。明日にはできるだけ信頼を置かず、今日一日を楽しみなさい。」

文学部の4回生の人だかが、すごく優秀で、先生の修辞法に関する質問に、さっと解答され、感心ばかりしていたような気がします。

あの方達は、きっとあれからさらに、研鑽を積まれ、それぞれの分野で、立派なお仕事をなさっておられることと思います。水野先生の授業は、きっと、彼らにとっても、特別の輝きを持って記憶に残っていることだろうと思います。

私は、羅英辞典を引いても英語自体に苦労するような状態で、溜め息をつきつき、間違いだらけの自分の訳文に朱を入れながら、半分意地になりながら、それでいて、この授業が、何か自分の教養に対する渇望を満たしてくれる奇跡のように感じながら、引きずられるように授業について行きました。

先述の優秀だった仏文科の女性に付き合うように、彼女の彼氏が一緒に出席していましたが、ある時、彼の訳文が、何かの既成の翻訳からの引き写しであることを先生が察知されて、厳しくお叱りになり、横で私は、彼を気の毒に思いながらも、ずるいことはしてはいけない、非力であっても、自分を尽くそう、と気を引き締めたのでした。

1974年1月に行われた1973年度の二回目の試験。問題を見た瞬間、「駄目だ、こりゃ。」ゼーッタイ、駄目。英語の試験ですら、こんな高級なのなかった。光栄だけど、すみません、ごめんなさい、不出来な弟子で申し訳ありません。情けないやら、恥ずかしいやら、空しく長い試験時間が本当に苦しく辛かった。ちなみにこの詩はHoratius、 韻律はSapphic。覚えてるわけないよ。あらためてごめんなさい。先生。

 そんな出来の悪い私でしたので、二回のテストでは、まったく自分では落第だと思ったにも関わらず、80点以上をいただき、べらぼうな高下駄を履かせて下さった先生のお優しさが身に沁みました。それにつけても、ホラーチーウスやオウィディウスを訳される先生のお言葉に、時に人間に対する優しさやユーモアが垣間みられたことを思い出します。単なる学究の徒ではない人間味溢れる何かに触れた気がいたしました。

先ほど一寸申し上げましたように、私は、ある種の教養みたいなものに対する憧れを抱いて、京都大学に入学しました。しかし、意外にも、その渇望に応えてくれるほどの人物、授業には行き当たらず、少なからず、失望していた所でしたが、先生の授業に行き当たったのは、丁度そのようなころだったわけです。

その後、私は、医学部を卒業し、京大病院から、大阪赤十字病院、滋賀医科大学と職場が移り、倉敷中央病院に赴任することになり、1990年の春、いよいよ慣れ親しんだ京都滋賀から離れるという時になって、水野先生の授業は私の青春のモニュメントとも言えるということに思い至り、文法書を開き、字引を引き引き、厚かましくも、恥ずかしくも、ラテン語と言えないようなラテン語作文をして、先生に、おそばを離れるにあたって、私の蒙を啓いて下さったことに感謝申し上げる次第を書き送りました。

恥ずかしながら、生まれて初めて書いたラテン語もどきの手紙。先生の朱筆が一杯で、それでも足りずに、先生から手紙で追加が・・・。便箋に収まりきらない情熱が余白に縦横にあふれているさまを見よ。さらに、さらに、それでも足らずに電話が・・・!

そうしましたら、いきなり電話があって、「君には私がきちんと教える義務があるから、是非、某月某日、自宅に来なさい。」とおっしゃるではありませんか。

あのラテン語の授業の年以来、すでに、13年間が経っておりました。以来、ラテン語の復習もろくにしていない私のごとき劣等生に先生はどんなにがっかりされるだろう、とおそるおそる先生のご自宅におうかがいしました。

先生は、例のごとく熱にうかされたようにラテン語について語られ、先生の勉強部屋にもあげて頂き、奥様にもお目にかかり、夕方になってようやく解放されたというか、すっかり私は圧倒され、感激して引き上げた次第でした。

その後、一度、京都府立医科大学病院に入院中の先生にお目にかかりに行ったこともございました。先生は、医者のラテン語知らずと不勉強について、すっかりお冠のようで、私は、仲間である医者に対する弁護の言葉を失いました。今となっては懐かしくもあり、さびしくもある思い出となりました。

今や、私も59歳になりました。あの授業の日々から、ほとんど、40年近くが経ったのです。今は、忙しい基幹病院から離れて、故郷の海辺の小さな町で、隠れ家みたいな皮膚科の医院を運営しながら、家内と二人ひっそりと暮らしています。青春の憧れは遠く去り、老いを迎えるにあたって、ふと思い浮かべるのは、ホラーチーウスの詩の断片であったり、先生の授業の日々の思い出です。

この年賀状をもらえることが、最後まで授業について行った学生の勲章だった。昭和51年元日。KAL. IAN. A.V.C. MMDCCXXIX  試験にも出た悪夢みたいな日付の書き方。ローマ建都を基準として2729年。つまり753を引いて、西暦1976年ということになる。よかった、合ってる。この歳の賀状は三好達治の文語詩の水野先生のラテン語訳で、「願はくば わがおくつきに・・・」という原詩が重ね刷りされている。

先生のラテン語詩の印刷された年賀状をいただけなくなり、先生はどうしておられるのか、毎年のように思いながら、消息をうかがえるような文学部の友人などいないままに月日が過ぎました。そして、昨年、インターネットで、たまたま、山口の安渓先生のページを見ていて、先生が亡くなられたことを知りました。そして、さらに、この本が出版されたことを知りました。

是非、このご本を手に入れなければならない、と思ったのは、出来が悪くはあっても、私も先生の弟子の一人であると思ったからです。

私の宝物

あの授業の時に作ったノート類は、今も宝のように私の手元にあり、憧れに満ちた青春のモニュメントであり、生の証しとなりました。先生のラテン詩の朗唱の名調子は、ことあるごとに私の記憶に蘇って、先生が私たちの中に生きておられることを実感します。

At nos hinc alii sitientis ibimus Afros

アトノー シンカリ イー シティエンティー シービム サーフロース

pars Scytiam et rapidum cretae veniemus Oaxen

パルス スキュティ エト ラピヅム クレータエ ウェニエームソ アクセーン

(5月開講時の授業で、生まれて初めて耳にしたラテン詩であるVergilius Bucolica 1,64-65

このページに見覚えのある人は多いはずだ。長短短格6韻脚 dactylic hexameter 生まれてはじめて見、聴いたラテン詩の響き

先生、本当にありがとうございました。長い間、お疲れさまでした。どうか、安らかにお休み下さい。

ご本の「はじめに」の冒頭の

「何人も私を涙で飾るなかれ。また泣きつつの葬儀をなすなかれ。 何故? 私は生きていて人士たちの口々の上を飛び回っているゆえに。」

というEnniusの詩句のとおり、先生は、多くの心ある人士の間で伝説のように語り継がれることでしょう。でも、こう書いている私の心の中を何か熱いものがあふれ流れるのをお許し下さい。

まとまりのないことを、くだくだしく書いてしまいました。どうか、先生の奥様にもよろしくお伝え下さいませ。

いよいよ、寒くなって参りました。皆様、お体に気を付けて、良き新年を迎えられるようお祈りします。

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ほぼ以上であった。

キツネコ家の子ども達が、青春の日々に、尽きせぬ憧れを抱き、良き人々との出会いに恵まれ、美しきもの、優しきもの、佳きものを理解し、優しくも強く生き抜いて行って欲しい、と心より願う。

2009年 クリスマスの夜 ライネケは記す。

2009年12月23日水曜日

松前城陥落とおかゆ <ライネケ院長>

ついに、松前城にもやって来た。江戸城、青葉城にひき続いて、大政所ネコパコ事務長が陥落した。

それは、まずは、くしゃみから始まった。

日曜日夜、ライネケ院長とネコパコ事務長は、道後の椿湯に入って、駐車場の長い上り坂を肩を並べて上がって帰った。彼女は、その夜遅くまで、某公共放送で、お隣の国の人柄だけどドジな男の話「イ・サン」、さらに「とさかの下の蜘蛛」かなんかを見ていたようだ。

オイラは「とさか」は、どこかの阿呆の台本作家やディレクターやらが、自分のわずかな人生経験と狭い知識から、子規はきっとこんな風に伊予弁をしゃべって、こんな風に中空を睨みつけたに違いない、ってきめつけて作るみたいな、あの怒鳴ってばかりの、大河ドラマなるものが大嫌いだ。横の部屋で、ふすまを閉めて、本を読んで寝ていた。あんなものを喜んで見てる庶民とか大衆とかも、大っ嫌いだ。

その翌日、月曜日、彼女が発症した。

月曜日午後、しきりに「喉が痛い、何だか変だわ。ブツブツ。」とつぶやいていたのを、ライネケは「病は気からじゃ。知らんぷり、知らんぷり。ちちんぷいぷい。」
やがて、咳が出る、しんどいって。

夜更かしのバチだわ。知らんよ、オイラは。「イサン殿」に助けてもらえ。関門海峡を渡って飛んで来てくれるさ。

夕方、発熱37℃

とうとう、奥の院に布団を敷いて寝てしまった。ライネケは、暗い外来に降りて行って、タミフルとロキソニンを持って来て、彼女に渡す。

深夜38℃超の発熱。まあ、そりゃ、しんどかろうねえ。予防接種を新型1回、季節型2回もしたのにねえ。まあ、罹るものは罹るわけだ。


枯れ葉の中で丸くなって寝ているネコパコ。

その足もとの布団の上に丸くなっている第5子ロナ。お母ちゃん、どうしたの? って言ってるわけではないようだ。彼が足もとで寝るとひどく布団が重くなり、窮屈なのだが。

火曜日、朝も昼も食べずに、アイスモナカだけ食べて寝ていたが、夜、おかゆが食べたい、なぞと言う。おかゆ? 贅沢なことを言うネコだ。そんなものどうやって作るのだ?

とにかく、通常量の三分の一程度のご飯にお椀一杯の水をいれて、コトコト煮込む。
ついでに、豚のロースの薄切りを炒めて、キャベツとネギとタマネギと豆を炒めて、適当に塩胡椒して、インスタント赤だしを少し分けて、

こんなの食べて見る? まずかったら残しておいてよ。

きれいに食べてくれたようだ。

今朝は、どうしよう。また、お粥を作るか。もう少し、ご飯を増やして、またコトコト。
おかずは、おかずは?
ありゃ、豚肉がなくなっちまった。
しょうがない。冷凍庫をかき回すと、鳥のもも肉がある。こいつをまた例によって塩胡椒して・・・。おっとその前に、電子レンジで解凍しなければ。

またまたワンパタンで申し訳ないが、とうとう、タマネギもネギもなくなったので、キャベツと豆だけ炒めたのに、今回はケチャップをたらして、色を添える。それにまた赤だし。


今回はデミタスコーヒーをサービス。甘くしておいたから、元気出してよ。
少しは、日頃の恩返しできたかな? 昼飯はどうするかな? 夕食は? 主婦はえらいねえ。

ところで、日曜日夜、椿湯の待ち合いで、ライネケは彼女とラムネの缶を分け合って飲んだ。

オイラも発症するかな? 
今週一杯、土曜日午前中で仕事納めだというのにな。

な、何だか、喉がイガイガするような気がするけど。
気のせい、気のせい、ちちんぷいぷい。

2009年12月18日金曜日

ネコパコ事務室だより8


今年の最大懸案事項であった某政府系役所の立入検査が昨日ありました

今年中に実施する連絡が入ってから4ヶ月。とりあえず書類整理、現場の状況チェック、改善と準備をして来ましたが、不安なものです
「いよいよ今日が検査だ!!」という当日の朝になって、やっぱりやろう…と自宅台所で使っている、足踏み式のゴミ箱2個を急遽ゴシゴシ洗って運びました
スタッフにプラゴミ用と可燃ゴミ用のシールを貼るように頼んで私は外出。こういうのをドロナワというのよね

午後2時55分、5人の検査官が到着。院長と共に丁寧にお出迎えしました。
揃えておいた書類をチェックする人や、薬剤、廃棄物などに分かれて一斉に仕事開始。
院長は3時の外来にいつものようにとりかかったので、いきおい質問は私に来る。
「へいへい、ああだこうだ、エッ!そうだったんですか!」etc.
当院の場合パートのスタッフの健康管理表の不備が指摘された事と、「安全管理マニュアルがとりあえず揃えてはあるけれど(無い所も多いとの事)もっと医院の実情に合わせた、具体性を持ったものにしておかれるのがよろしいとのことで、ではまた4年後に…」とゾロッとお帰りになったのは30分後でした。
バンザーイ終わった!!とスタッフと手打ち
あとで聞くと「バックヤードの管理、特にゴミ箱も大変いいですね」と言われたとスタッフの弁。ドロナワを認めて頂いてうれしいな
細かい注意はいろいろありましたが、それをするのがお仕事ですから。
丁度一ヶ月前に検査があった近所の小児科では、一時間かかってとても大変だったと聞いていたので、わりにさっと済んで良かったです。考えてみれば、医療用の器械がほとんど無いからでしょうか。
まあそんなこんな仕事が一つづつ片付いて年末がぐっと近づいて来た所です

合間にはTの会の仕事も入り、それなりにああ忙し








これはこの季節になると作りたくなるクッキーの勉強会








乳幼児を持った若いお母さん達といっしょに作りました
皆さん無邪気に喜んでくださって良かった


2009年12月9日水曜日

徒然雑草 chica

軟禁城の陥落


巷で話題のあの病原菌が
私の身辺にもやってきた。

噂のトぶ薬タミフル服用で5日間、要観察。
これが、面倒くさい!!!!!

しがない会社勤めの一人暮らしの部屋に
人間1匹軟禁すると、観察者も同じ空間で過ごさなにゃならん訳で
その上、観察対象が、すこぶる元気と来た。

1日目:体温37、3度
2日目:体温36、4度
3日目:体温35、6度

鼻水。咳の症状はあるがあとは至って健康。
食欲も旺盛。

はあ〜。なんだかなあ。
軽症でよかったんだけど。。。。。

仕方ないから、午前。午後。学校の課題に取り組ませ
休憩時間は読書。(本はリクエストに応じて私が図書館で借りてくる)
夜はDVD鑑賞。

こんなもんなら私も早く感染したい。。。












2009年12月5日土曜日

ネコパコ事務室だより7

このずっしり重そうな
あやしい塊は何?








きゃ〜っ!!狂気錯乱 
牛タンだ〜ぞ 
なんと1.6kg 100g600円
一万円近い国産黒毛和牛
手に入れるのは久しぶり





食い気がグロテスクを凌駕する

シコシコ皮むき
あせらずゆっくりすこしづつがコツ

それでも370gのゴミ 
ゴミ代が2000円近い ムムム






じゃ〜ん 塩タンの下準備完了
柔らかくておいしい部分
ウフフ、これは初挑戦
いつもは圧力鍋で丸茹後、皮剥ぎ
その方が剥きやすいのですけれど、今回は塩タンもメニューに入れたかったのです






こちらは三日煮込んでタンシチューになる予定
赤ワインとブランデーをたっぷり使うのです

そして三日後
おばかさんは肝心の完成品の写真撮る暇もなく、慌ただしく、さる大切なお客様と食べたのでした
心配しないで、子ども達。君らの分はちゃんとストックしたわよ


召集令状 <ライネケ院長>

とうとう年末が近くなった。
するべきことは山ほどありそうだが,やる気は全く出ない。

ストーブの傍でうつらうつらしていると,何もする気が起こらん。

振り返ってみれば,一年は夢のごとくであった。

広くなったおでこ,近くも遠くも見えなくなって来た目、視覚のみならず,視野狭窄になって来た頭脳、仕方のないことはいくらでもある。

夕闇が迫り、西の空の美しさが心に沁みる時、うっとりと過ごして来た楽しい日々が、残りすくなりつつあることを感じる。
         世の中を
         何にたとへん
         あさびらき
         漕ぎ往にし舟の
         跡なきがごと
             万葉集 351

ところで、今夜のおかずは何かな? ネコパコさん。

やっぱり、牡蠣はカキフライだよ。レモンをしぼりかけて、昔ながらのいかり印のウースターソースをかけて食べるのがおいしい。

「檄文」
諸君、正月二日は善通寺にライネコ家一同勢揃いでお詣りして、夕方、善通寺市内の牡蠣料理屋「かき徳」で、カキフライ、牡蠣の酒蒸し、牡蠣飯を食べることにする。今のうちにするべきことは片付けて、気分良く、顔を合わせよう。

ライネケは、ガレージと射場の片付けをすることにする。CBの車検の準備もしなければ。

楽しみだね。

2009年12月3日木曜日

徒然雑草 chica

もう12月ですねえ。
いかがお過ごしでしょうか?
もう!もう!1年終わっちゃうよ!!!


なんだか、焦りばっかで、そりゃ
目も血走るって話ですよ!
眉毛太くなるって話ですよ!
顔も緑になるって話ですよ!

サンタクロースは来ないし
きっと君は来ないし、(誰が?)
来年は来るし!

まあ、とりあえず皆さん
師走に走って転けないようにお気をつけ下さいませ。

     chica

2009年11月12日木曜日

ペソのこと <ライネケ>


ペソがうちに来て,かなり過ぎた。彼もこちらも大分くたびれて来たね。

ペソは、ホンダの原付スクーターだ。就職活動をろくにしなかったChicaは大学を卒業したけど、行くところがなくて,とにかく,植栽関係ということで,京都の日本庭園専門の庭師の所に丁稚入りした。

バスで通うのは不便で,あまり可哀想だっていうので,ライネケ父さんが彼女の所に様子うかがいに行ったついでに,滋賀のバイク屋で買ったんだったね。整備して,保険をつけて,12万円あまりだった。たしか,全額は出してやらなかった
ね。


ペソと後ろに見えるのはロナ

とにかく,あまり器用とはいえないChicaでも乗れるということが最優先条件だ。それなら,ホンダのスーパーカブだよって言ったら,あれはイヤだ,チェンジペダルの無いのがいいのだ,と言う。それで,滋賀の方まで探しに行って,デザイン優先でこれに決めたわけだ。ちょっと昔のラビットに似ていて,かわいいでしょ。

早速、彼女は,このスクーターに愛称をつけた。「ペソ」だって。なんで「ペソ」なのか分からないが,彼女はあっという間に,こういう風な愛称をつけるのだ。「ロナ」だってそうだ。この大胆さは、彼女のちょっと意外な特質だ。

あの頃のChicaは大変だったと思うね。劣悪な生活環境の中で,早起きと若い女の子には余り似合わしくない汚れ仕事と重労働。偉そうにするわりには,ちっとも尊敬出来ない親方のもとで,自分の未来の展望がまるで見えて来ない毎日。

Chicaさんは、きっと、そういう辛い状況の中で,自分の味方になって働いてくれるこの可愛いスクーターに,妙にひょうきんな愛称をつけてやることで,自分を慰めたのかもしれない,と思う。

めそめそするな,ペソよ,走れ。

働くこと一年間。この一年間の経験は今も役立っていることだろう。あの時を思いおこせば,大抵の事は我慢出来る,切り抜けられると思いたい。

なんと,Chicaさんは一転して,ちっちゃな植物園で働くことになった。なにごとも無駄にはならないもんだ。

それで,引っ越し先には連れて行ってもらえなかったペソは,愛媛に送られて来て,キツネコ家の一員になったわけだ。

ペソは,オートバイの好きなライネケの所有になり,医院の再開を待つ間は砥部の運動公園に行ったり,開業してからは,ライネケの往診の足になったり,時には,松山まで講演会のお供をしたり、ろくに手入れもされないまま,文句もいわず働いて来た。最近やっと2サイクルオイルを、多分4年ぶりに,補充しただけだ。

春の菜の花畑の前で幸せそうなペソ

さて,ある日,何かのはずみで思ったんだ。ところで,原付スクーターって、原動機付きとはいえ,自転車みたいなもんだから,自賠責なんて要らないよねえ。

自賠責,つまり自動車賠償責任保険っていうのは,自動車で走っていて事故を起こして,人を傷つけたら,最低額の保証ができるために、日本国内のどんな自動車にも,国により強制的に加入させられている保険の事だ。

原付と自賠責で、Googleで調べてみたら・・・。エエエッッ!! 要るじゃないか。もし,入ってなくて,走っていて捕まったら,

お,お,おっかねえ!!

と、と,ところで,ペソは自賠責に入ってたっけ。そりゃ,Chicaさんが買った時に入ってたはずだよね。でも,あれ以来,自賠責なんて考えたこともなかったぜ。

早速,ガレージのペソのもとに走って行って,見ると,・・・・。


やややや!駄目じゃん。もう切れてるじゃないか。おいおい。
そういえば,Chicaさんから送られて来たペソを松前町役場に乗って行って,名義変更して新しいナンバープレートをもらった時,町役場の駐車場で,ナンバーから,あと1年残っていた自賠責のステッカーを剥がして,新しい松前町ナンバープレートに貼り換えたんだったよ。


昨日,近くの自転車屋さんに行って,ペソの自賠責保険2年分を払い込みに行き,ステッカーをもらった。8790円だった。これで二年間安心して乗れるわけだ。二年後,忘れず更新しなくてはね。

久しぶりに,ナンバープレートをきれいに拭き上げ,平成23年11月まで有効の新しいステッカーを貼った。これで,お巡りさんの前でもびくびくしないで済む。

お巡りさん,ご苦労様。何か、僕に御用ですか?

最近、始動性が悪かったり,アイドリングが妙に高くなったりしていたので,ついでに,サイドカバーを外して,キャブレターを外して,分解掃除した。これで調子もよくなった。

ペソ,Chicaさんの足になり,ご苦労だったね。ライネケとも,もうしばらく付き合うことになりそうだな。がんばんなさいね。

諸君,くれぐれも、自賠責を忘れないようにしなさい。

2009年10月30日金曜日

ネコパコ事務室だより 6


久方ぶりにアップします

今頃の季節が来ると何となく思い出されるのは
我が学び舎のステンドグラス
ねずみのフレデリック
晩秋の山歩きにみた照り葉の輝き
ア〜ッ…しみじみ…

魂を温めてくれる光に惹かれるのでしょう
そこでもっと積極的に楽しむことにしました
最近の私の秋の夜長の手すさびから紹介します

トランスパラントペーパーを使ったクラフト
これは西洋カイトのためのカラー硫酸紙?
張りがあって扱いやすいものです
日本には無くオランダ製
次は薄葉紙を使ったローズ.ウインドウ
どちらも折ったり切ったり、貼ったり結構手間がかかりますが
時間を忘れて没頭してしまいます
光にかざした時の喜びはひとしおです
きっとライネケ院長は、その没頭ぶりに
呆れ返っていることでしょう

Jet lag syndrome

Sora

先週,アメリカに行って一週間 「異文化交流」 してきました.
それで,帰ってきたら時差呆けになり,急遽「超」朝型に変身.
(アメリカとの時差は10時間と少し.この時期,サマータイムの影響もあり,呆けは大抵,深夜目が覚める形で現われます.)

ついで,来週の学会発表に向けて発表資料作りのために徹夜をしたら,もう完全に何がなんだか分からない状態になってしまった…

今日も朝3時過ぎに目が覚め,寝られないので,海まで自転車で出かけました.
日の出頃には海岸についたので,朝ごはんを食べつつ朝日を待ちます.

今日は快晴です.早起きもたまにはいいもんだ.…間違ってますか?
さあ,講義に出かけるとするか.

                                               geko

2009年10月28日水曜日

徒然雑草 chica

ここんとこの日々を少し。
家から徒歩5分の美術館でやってた、「ヴェルナー パントン展」に行って来た。
家具とかテキスタイルとか総合してデザインした建築家です。
住みたいかどうかは別にして、刺激的でした。
ポストカードは、部屋の写真。
波打つ床と天井はクッションになってて、ゴロニャンできます。
波の膨らみがちょうど腰にあって快適。
脳みそ良い感じに高野豆腐化したよ。
コンパクトデジカメ買った。
一眼好きなんだが、鞄に入れっぱなしに出来ないので。
リコーのCX2という機種なんですが、なんと!
マクロ1㎝まで近づけるんです。
これが面白い。一眼でもマクロレンズ必要だもんね。
でも、高かった。4万8千円はなかなか。。。。。
電気屋で粘って3万9800円まで落としました。
最後の泣きの一声は
「これ買ったら、振りかけご飯しか食べられないから
 せめて生卵つけさせて!!!!!」

これに泣いてくれたのかどうかは分からんが
安くなったので良しとしました。

振りかけご飯と卵焼きにみそ汁とサラダとハムもちゃんと
食べられる  chica

2009年10月20日火曜日

東京 <ライネケ>

10月9日(金)から12日(月)まで、東京に行って来た。

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10/09(金)
午後から休診にして、夕方、事務長と松山空港に向かった。カブリオは空港駐車場でお泊まり。1時間で羽田に。池袋のホテルへ。食事のため、外出したが、夜遅くまで、人ごみが続く。

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Shigeはどこ? あれか?

10/10(土)
ひばりケ丘の自由学園に。大芝生を見渡す右端中段に陣取る。終始、Shigeがどこにいるか確信が持てないまま終わる。5年前小学生だった彼が、高等部2年生なのだ。ライネケは初めて体操会を参観した。学びの場として、素晴らしい環境だな。
なあ、Shigeはどこ?

Shigeはどこよ? まだ分からん。

4時ころは、学園を引き上げ、ひとり渋谷に向かう。岡本太郎の「太陽の神話」の前で、40年前の予備校時代の友だちと会い、昼食を共にする。彼と会うのもこれが最後かな。

ネコパコと「太陽の神話」の前で

彼と別れて、夜8時頃、有楽町で、ネコパコと落ち合う。キツネコ家の税務について、東京の専門の税理士さんと話し合うためだが、有楽町のど真ん中の高層ビルの中にその事務所はあった。日本の中心地の中でも、その本当に中心地だね。

その夜は、新宿泊まり。夜遅くなって、東京都庁の前を通って、新宿のホテルに向かう。例のオリンピック招致のキャンペーンのための馬鹿でかい看板を、外していた。その前で、ホームレスのとっつぁんが猫に餌をやっていた。


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10月11日(日)
朝、ChicaとChicaのアパートに泊めてもらっていたShigeと会い、豊島区にある熊谷守一美術館に行く。その後、バスに乗って青山のあたりを走り、Chicaのおごりで、列に並んで、ガレット屋さんで昼食。何だかえらく微妙なものを食べた。クレープとどう違うんだ?暑い一日だった。


夜、Chicaのアパートから歩いて、新国立劇場の近くのタイ・インド料理の店で夕食。ShigeはまたChicaに任せて、ネコパコと都庁の前を通って、新宿のホテルに帰る。明日から、Chicaはまた仕事。つらいこともあるだろうけど、自分を高めるよう努めて欲しい。元気でやりなさいよ。

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10月12日(月)
朝、Chicaのアパートからやって来たShigeがホテルまでやって来た。ネコパコとShigeと3人で神田の古書店街を歩くことに。お茶の水から神田にかけては、大学が多く、学生も多い。ライネケは、Shigeが将来、学生街を歩いたりするかもしれないし、いろいろなことに興味が起きて、書物を探したり、書物や書店の持つある種の雰囲気を味あうことになるかもしれないから、と思って、帰路につく前の限られた時間のうちに、少しでも多くを見せておこうと思って、せかせか歩き回った。


あとをついて忙しく歩かされた二人は、きっと、父親は、昔の思い出に駆られて、昔歩いた街を彷徨っている、と思っただろうね。あせらしく歩き回る父親の後ろ姿を、いつか思い出す日が来るだろう。おいらは、通りの向かいの、柏水堂でコーヒーでも飲んでいたかったんだけどね。最近火事を起こしたけど、まだやってるみたいだな。
柏水堂のレシート なつかしいね

お茶の水まで駿河台の坂を上がって行ったりして、昼が過ぎてしまい、神田駅に着いたのが、午後2時前。「焼き肉の万世」でハンバーグを食べる。通俗だけど、こんなものが少年時代はうまいんだ、というのが、40年前の経験かな。

神田駅で、Shigeともお別れだ。頑張るんだよ、Shige。Chicaお姉ちゃんもいる。皆、遠くから見ているぞ。君は独りじゃない。

羽田空港のおもちゃ屋さんの前に陳列してあった自動車のおもちゃ

4時過ぎ、松山行の日航機に搭乗。随分長い間の東京滞在だった。40年ぶりの友との再会もしたし。ライネケの青春時代は、往時茫茫、遥か彼方に去ってしまった。次は彼らの番だな。

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Chicaも藤沢時代、京都時代と大変だったね。今や我家で一番の実務家に見えるよ。頼れる気がする。Shigeはとうとう、乗り切ったようだね。本当につらかったろう。心底から、えらいと思うよ。これからも、いろいろな試練が待ち受けているだろう。その度に、あの難局を乗り切ったのだから、今度の困難も乗り越えられるはずだ、と思える人に、幸あれ。