2009年12月25日金曜日

水野有庸先生のこと <ライネケ院長>

最近、ある本を入手した。
その本は、昨年三月亡くなった人の追悼文集のようなもので、ライネケは、Amazonのインターネットショップを通じて手に入れようとしたのだが、随分長い間待った挙げ句、結局在庫がなくて、ある方にご無理をお願いして一冊譲って頂いたのだった。

「ラテン詩人 水野有庸の軌跡」

『ラテン詩人水野有庸の軌跡』編集委員会編
2009年3月11日 大阪公立大学共同出版会 発行


ライネケは、ご無理をお願いした方に礼状を書いた。

礼状は、ご本を送って下さった方への感謝だけでなく、すでに天に昇られ、天国でウェルギリウスやオウィディウス、ホラーチーウスたちとラテン語で会話を交わしておられるであろう水野先生への、不出来な弟子の遅まきながらの感謝を表すものである。天国に届くポストがあればいいのに。

なつかしい水野先生の人生最良の時

思えば、故水野有庸先生との出会いは、私の人生にある種の影響を与えた出来事の一つであった。ここに、先生の思い出と先生への感謝を記すことは、それなりの意味があろうと思ったのである。

写真と赤字のコメントはあとからの追加である。

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拝啓

本日、「ラテン詩人水野有庸の軌跡」のご本とディスクを受け取りました。電話で差し上げた私の厚かましいお願いを、このように早く、聞き入れて頂いたことに、とにもかくにも、感謝申し上げたいと思い、筆をとりました。

皆さんがあの本にお寄せになっておられるようなお気持ちと重なるので、今さらと、うるさくお思いになられると思いますが、あえて、書き綴る次第です。

 私は、昭和47年、京大医学部に入学して、昭和53年卒業しました。その後、各地の病院に皮膚科医として勤めたあと、4年前より、郷里の愛媛県に戻って、自宅で皮膚科の小さな医院を開業して暮らしています。

水野先生の授業を受けたのは、昭和48年の春からでした。私は医学部の教養部の二回生でした。文学部の教務受付に行って、ラテン語4時間コースを医学部の学生が受けることができるのか、と質問に行きました。「ああ、もちろん受講できます。単位も取れますよ。」と言う事務官が微笑を浮かべたような気がしました。そして、いよいよ、授業が始まって、事務官の微笑の意味が分かった気がしました。

五月開講初日のノート第1ページ目。ラテン文字とイタリア半島

夏休みが終わって、後期の最初の授業に出てみれば、開講時30人前後いた前期受講生のうち生き残ったのは、なんと、たったの2人に過ぎず、前年の挫折組3人ほどが加わって、5人ほどで授業が続きました。

私は、教養部二回生でしたから、ラテン語のほかに、英語、ドイツ語とフランス語の授業も受けておりました。でも、一年間というもの、自宅学習のほとんどの時間はラテン語の予習に費やしました。英独仏は片手間で受講したような感じでしたが、全部楽々と優をいただきました。でも、ラテン語の授業は本当に苦しかったです。

最初の授業のラテン語の発音例で、先生が、ウェルギリウスやオウィディウス、ホラーチーウスの詩を板書なさり、例の調子で、朗唱をされ、初めて聞く古典ラテン語の響きにびっくりもし、感動もしたこと、日が短くなって、夕方6時ころ、懐中電灯をつけてトイレに行き、パンをかじって授業を続けたこと、毎回、夜8時を過ぎて、すでに施錠された本学の北門を乗り越えて、今出川通を下宿に帰ったこと、いよいよ後期になり、もうカエサルとキケロの散文とホラーチーウスやウェルギリウスの詩の和訳だけで手一杯で、詩のreconstructionにまでは、まったく予習の手が回らず、授業では、仏文科の女性が黒板で回答を書くのを唖然として眺め、先生がそれを直すのを、ノートに写すだけ、という状態に追い込まれたこと、そんなことを昨日のように思い出します。

完膚なきまでに朱の入った予習ノート。HORATI FLACCI CARMINUM LIBER Ⅰ  greater asclepiad 「賢くあれ。葡萄酒を漉し、時間のけちくさい限度内なのだから、長過ぎる希望は切り詰めよ。我々が今こうしてしゃべっているうちに人生の時間は逃げて行ってしまっているだろう。明日にはできるだけ信頼を置かず、今日一日を楽しみなさい。」

文学部の4回生の人だかが、すごく優秀で、先生の修辞法に関する質問に、さっと解答され、感心ばかりしていたような気がします。

あの方達は、きっとあれからさらに、研鑽を積まれ、それぞれの分野で、立派なお仕事をなさっておられることと思います。水野先生の授業は、きっと、彼らにとっても、特別の輝きを持って記憶に残っていることだろうと思います。

私は、羅英辞典を引いても英語自体に苦労するような状態で、溜め息をつきつき、間違いだらけの自分の訳文に朱を入れながら、半分意地になりながら、それでいて、この授業が、何か自分の教養に対する渇望を満たしてくれる奇跡のように感じながら、引きずられるように授業について行きました。

先述の優秀だった仏文科の女性に付き合うように、彼女の彼氏が一緒に出席していましたが、ある時、彼の訳文が、何かの既成の翻訳からの引き写しであることを先生が察知されて、厳しくお叱りになり、横で私は、彼を気の毒に思いながらも、ずるいことはしてはいけない、非力であっても、自分を尽くそう、と気を引き締めたのでした。

1974年1月に行われた1973年度の二回目の試験。問題を見た瞬間、「駄目だ、こりゃ。」ゼーッタイ、駄目。英語の試験ですら、こんな高級なのなかった。光栄だけど、すみません、ごめんなさい、不出来な弟子で申し訳ありません。情けないやら、恥ずかしいやら、空しく長い試験時間が本当に苦しく辛かった。ちなみにこの詩はHoratius、 韻律はSapphic。覚えてるわけないよ。あらためてごめんなさい。先生。

 そんな出来の悪い私でしたので、二回のテストでは、まったく自分では落第だと思ったにも関わらず、80点以上をいただき、べらぼうな高下駄を履かせて下さった先生のお優しさが身に沁みました。それにつけても、ホラーチーウスやオウィディウスを訳される先生のお言葉に、時に人間に対する優しさやユーモアが垣間みられたことを思い出します。単なる学究の徒ではない人間味溢れる何かに触れた気がいたしました。

先ほど一寸申し上げましたように、私は、ある種の教養みたいなものに対する憧れを抱いて、京都大学に入学しました。しかし、意外にも、その渇望に応えてくれるほどの人物、授業には行き当たらず、少なからず、失望していた所でしたが、先生の授業に行き当たったのは、丁度そのようなころだったわけです。

その後、私は、医学部を卒業し、京大病院から、大阪赤十字病院、滋賀医科大学と職場が移り、倉敷中央病院に赴任することになり、1990年の春、いよいよ慣れ親しんだ京都滋賀から離れるという時になって、水野先生の授業は私の青春のモニュメントとも言えるということに思い至り、文法書を開き、字引を引き引き、厚かましくも、恥ずかしくも、ラテン語と言えないようなラテン語作文をして、先生に、おそばを離れるにあたって、私の蒙を啓いて下さったことに感謝申し上げる次第を書き送りました。

恥ずかしながら、生まれて初めて書いたラテン語もどきの手紙。先生の朱筆が一杯で、それでも足りずに、先生から手紙で追加が・・・。便箋に収まりきらない情熱が余白に縦横にあふれているさまを見よ。さらに、さらに、それでも足らずに電話が・・・!

そうしましたら、いきなり電話があって、「君には私がきちんと教える義務があるから、是非、某月某日、自宅に来なさい。」とおっしゃるではありませんか。

あのラテン語の授業の年以来、すでに、13年間が経っておりました。以来、ラテン語の復習もろくにしていない私のごとき劣等生に先生はどんなにがっかりされるだろう、とおそるおそる先生のご自宅におうかがいしました。

先生は、例のごとく熱にうかされたようにラテン語について語られ、先生の勉強部屋にもあげて頂き、奥様にもお目にかかり、夕方になってようやく解放されたというか、すっかり私は圧倒され、感激して引き上げた次第でした。

その後、一度、京都府立医科大学病院に入院中の先生にお目にかかりに行ったこともございました。先生は、医者のラテン語知らずと不勉強について、すっかりお冠のようで、私は、仲間である医者に対する弁護の言葉を失いました。今となっては懐かしくもあり、さびしくもある思い出となりました。

今や、私も59歳になりました。あの授業の日々から、ほとんど、40年近くが経ったのです。今は、忙しい基幹病院から離れて、故郷の海辺の小さな町で、隠れ家みたいな皮膚科の医院を運営しながら、家内と二人ひっそりと暮らしています。青春の憧れは遠く去り、老いを迎えるにあたって、ふと思い浮かべるのは、ホラーチーウスの詩の断片であったり、先生の授業の日々の思い出です。

この年賀状をもらえることが、最後まで授業について行った学生の勲章だった。昭和51年元日。KAL. IAN. A.V.C. MMDCCXXIX  試験にも出た悪夢みたいな日付の書き方。ローマ建都を基準として2729年。つまり753を引いて、西暦1976年ということになる。よかった、合ってる。この歳の賀状は三好達治の文語詩の水野先生のラテン語訳で、「願はくば わがおくつきに・・・」という原詩が重ね刷りされている。

先生のラテン語詩の印刷された年賀状をいただけなくなり、先生はどうしておられるのか、毎年のように思いながら、消息をうかがえるような文学部の友人などいないままに月日が過ぎました。そして、昨年、インターネットで、たまたま、山口の安渓先生のページを見ていて、先生が亡くなられたことを知りました。そして、さらに、この本が出版されたことを知りました。

是非、このご本を手に入れなければならない、と思ったのは、出来が悪くはあっても、私も先生の弟子の一人であると思ったからです。

私の宝物

あの授業の時に作ったノート類は、今も宝のように私の手元にあり、憧れに満ちた青春のモニュメントであり、生の証しとなりました。先生のラテン詩の朗唱の名調子は、ことあるごとに私の記憶に蘇って、先生が私たちの中に生きておられることを実感します。

At nos hinc alii sitientis ibimus Afros

アトノー シンカリ イー シティエンティー シービム サーフロース

pars Scytiam et rapidum cretae veniemus Oaxen

パルス スキュティ エト ラピヅム クレータエ ウェニエームソ アクセーン

(5月開講時の授業で、生まれて初めて耳にしたラテン詩であるVergilius Bucolica 1,64-65

このページに見覚えのある人は多いはずだ。長短短格6韻脚 dactylic hexameter 生まれてはじめて見、聴いたラテン詩の響き

先生、本当にありがとうございました。長い間、お疲れさまでした。どうか、安らかにお休み下さい。

ご本の「はじめに」の冒頭の

「何人も私を涙で飾るなかれ。また泣きつつの葬儀をなすなかれ。 何故? 私は生きていて人士たちの口々の上を飛び回っているゆえに。」

というEnniusの詩句のとおり、先生は、多くの心ある人士の間で伝説のように語り継がれることでしょう。でも、こう書いている私の心の中を何か熱いものがあふれ流れるのをお許し下さい。

まとまりのないことを、くだくだしく書いてしまいました。どうか、先生の奥様にもよろしくお伝え下さいませ。

いよいよ、寒くなって参りました。皆様、お体に気を付けて、良き新年を迎えられるようお祈りします。

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ほぼ以上であった。

キツネコ家の子ども達が、青春の日々に、尽きせぬ憧れを抱き、良き人々との出会いに恵まれ、美しきもの、優しきもの、佳きものを理解し、優しくも強く生き抜いて行って欲しい、と心より願う。

2009年 クリスマスの夜 ライネケは記す。

2009年12月23日水曜日

松前城陥落とおかゆ <ライネケ院長>

ついに、松前城にもやって来た。江戸城、青葉城にひき続いて、大政所ネコパコ事務長が陥落した。

それは、まずは、くしゃみから始まった。

日曜日夜、ライネケ院長とネコパコ事務長は、道後の椿湯に入って、駐車場の長い上り坂を肩を並べて上がって帰った。彼女は、その夜遅くまで、某公共放送で、お隣の国の人柄だけどドジな男の話「イ・サン」、さらに「とさかの下の蜘蛛」かなんかを見ていたようだ。

オイラは「とさか」は、どこかの阿呆の台本作家やディレクターやらが、自分のわずかな人生経験と狭い知識から、子規はきっとこんな風に伊予弁をしゃべって、こんな風に中空を睨みつけたに違いない、ってきめつけて作るみたいな、あの怒鳴ってばかりの、大河ドラマなるものが大嫌いだ。横の部屋で、ふすまを閉めて、本を読んで寝ていた。あんなものを喜んで見てる庶民とか大衆とかも、大っ嫌いだ。

その翌日、月曜日、彼女が発症した。

月曜日午後、しきりに「喉が痛い、何だか変だわ。ブツブツ。」とつぶやいていたのを、ライネケは「病は気からじゃ。知らんぷり、知らんぷり。ちちんぷいぷい。」
やがて、咳が出る、しんどいって。

夜更かしのバチだわ。知らんよ、オイラは。「イサン殿」に助けてもらえ。関門海峡を渡って飛んで来てくれるさ。

夕方、発熱37℃

とうとう、奥の院に布団を敷いて寝てしまった。ライネケは、暗い外来に降りて行って、タミフルとロキソニンを持って来て、彼女に渡す。

深夜38℃超の発熱。まあ、そりゃ、しんどかろうねえ。予防接種を新型1回、季節型2回もしたのにねえ。まあ、罹るものは罹るわけだ。


枯れ葉の中で丸くなって寝ているネコパコ。

その足もとの布団の上に丸くなっている第5子ロナ。お母ちゃん、どうしたの? って言ってるわけではないようだ。彼が足もとで寝るとひどく布団が重くなり、窮屈なのだが。

火曜日、朝も昼も食べずに、アイスモナカだけ食べて寝ていたが、夜、おかゆが食べたい、なぞと言う。おかゆ? 贅沢なことを言うネコだ。そんなものどうやって作るのだ?

とにかく、通常量の三分の一程度のご飯にお椀一杯の水をいれて、コトコト煮込む。
ついでに、豚のロースの薄切りを炒めて、キャベツとネギとタマネギと豆を炒めて、適当に塩胡椒して、インスタント赤だしを少し分けて、

こんなの食べて見る? まずかったら残しておいてよ。

きれいに食べてくれたようだ。

今朝は、どうしよう。また、お粥を作るか。もう少し、ご飯を増やして、またコトコト。
おかずは、おかずは?
ありゃ、豚肉がなくなっちまった。
しょうがない。冷凍庫をかき回すと、鳥のもも肉がある。こいつをまた例によって塩胡椒して・・・。おっとその前に、電子レンジで解凍しなければ。

またまたワンパタンで申し訳ないが、とうとう、タマネギもネギもなくなったので、キャベツと豆だけ炒めたのに、今回はケチャップをたらして、色を添える。それにまた赤だし。


今回はデミタスコーヒーをサービス。甘くしておいたから、元気出してよ。
少しは、日頃の恩返しできたかな? 昼飯はどうするかな? 夕食は? 主婦はえらいねえ。

ところで、日曜日夜、椿湯の待ち合いで、ライネケは彼女とラムネの缶を分け合って飲んだ。

オイラも発症するかな? 
今週一杯、土曜日午前中で仕事納めだというのにな。

な、何だか、喉がイガイガするような気がするけど。
気のせい、気のせい、ちちんぷいぷい。

2009年12月18日金曜日

ネコパコ事務室だより8


今年の最大懸案事項であった某政府系役所の立入検査が昨日ありました

今年中に実施する連絡が入ってから4ヶ月。とりあえず書類整理、現場の状況チェック、改善と準備をして来ましたが、不安なものです
「いよいよ今日が検査だ!!」という当日の朝になって、やっぱりやろう…と自宅台所で使っている、足踏み式のゴミ箱2個を急遽ゴシゴシ洗って運びました
スタッフにプラゴミ用と可燃ゴミ用のシールを貼るように頼んで私は外出。こういうのをドロナワというのよね

午後2時55分、5人の検査官が到着。院長と共に丁寧にお出迎えしました。
揃えておいた書類をチェックする人や、薬剤、廃棄物などに分かれて一斉に仕事開始。
院長は3時の外来にいつものようにとりかかったので、いきおい質問は私に来る。
「へいへい、ああだこうだ、エッ!そうだったんですか!」etc.
当院の場合パートのスタッフの健康管理表の不備が指摘された事と、「安全管理マニュアルがとりあえず揃えてはあるけれど(無い所も多いとの事)もっと医院の実情に合わせた、具体性を持ったものにしておかれるのがよろしいとのことで、ではまた4年後に…」とゾロッとお帰りになったのは30分後でした。
バンザーイ終わった!!とスタッフと手打ち
あとで聞くと「バックヤードの管理、特にゴミ箱も大変いいですね」と言われたとスタッフの弁。ドロナワを認めて頂いてうれしいな
細かい注意はいろいろありましたが、それをするのがお仕事ですから。
丁度一ヶ月前に検査があった近所の小児科では、一時間かかってとても大変だったと聞いていたので、わりにさっと済んで良かったです。考えてみれば、医療用の器械がほとんど無いからでしょうか。
まあそんなこんな仕事が一つづつ片付いて年末がぐっと近づいて来た所です

合間にはTの会の仕事も入り、それなりにああ忙し








これはこの季節になると作りたくなるクッキーの勉強会








乳幼児を持った若いお母さん達といっしょに作りました
皆さん無邪気に喜んでくださって良かった


2009年12月9日水曜日

徒然雑草 chica

軟禁城の陥落


巷で話題のあの病原菌が
私の身辺にもやってきた。

噂のトぶ薬タミフル服用で5日間、要観察。
これが、面倒くさい!!!!!

しがない会社勤めの一人暮らしの部屋に
人間1匹軟禁すると、観察者も同じ空間で過ごさなにゃならん訳で
その上、観察対象が、すこぶる元気と来た。

1日目:体温37、3度
2日目:体温36、4度
3日目:体温35、6度

鼻水。咳の症状はあるがあとは至って健康。
食欲も旺盛。

はあ〜。なんだかなあ。
軽症でよかったんだけど。。。。。

仕方ないから、午前。午後。学校の課題に取り組ませ
休憩時間は読書。(本はリクエストに応じて私が図書館で借りてくる)
夜はDVD鑑賞。

こんなもんなら私も早く感染したい。。。












2009年12月5日土曜日

ネコパコ事務室だより7

このずっしり重そうな
あやしい塊は何?








きゃ〜っ!!狂気錯乱 
牛タンだ〜ぞ 
なんと1.6kg 100g600円
一万円近い国産黒毛和牛
手に入れるのは久しぶり





食い気がグロテスクを凌駕する

シコシコ皮むき
あせらずゆっくりすこしづつがコツ

それでも370gのゴミ 
ゴミ代が2000円近い ムムム






じゃ〜ん 塩タンの下準備完了
柔らかくておいしい部分
ウフフ、これは初挑戦
いつもは圧力鍋で丸茹後、皮剥ぎ
その方が剥きやすいのですけれど、今回は塩タンもメニューに入れたかったのです






こちらは三日煮込んでタンシチューになる予定
赤ワインとブランデーをたっぷり使うのです

そして三日後
おばかさんは肝心の完成品の写真撮る暇もなく、慌ただしく、さる大切なお客様と食べたのでした
心配しないで、子ども達。君らの分はちゃんとストックしたわよ


召集令状 <ライネケ院長>

とうとう年末が近くなった。
するべきことは山ほどありそうだが,やる気は全く出ない。

ストーブの傍でうつらうつらしていると,何もする気が起こらん。

振り返ってみれば,一年は夢のごとくであった。

広くなったおでこ,近くも遠くも見えなくなって来た目、視覚のみならず,視野狭窄になって来た頭脳、仕方のないことはいくらでもある。

夕闇が迫り、西の空の美しさが心に沁みる時、うっとりと過ごして来た楽しい日々が、残りすくなりつつあることを感じる。
         世の中を
         何にたとへん
         あさびらき
         漕ぎ往にし舟の
         跡なきがごと
             万葉集 351

ところで、今夜のおかずは何かな? ネコパコさん。

やっぱり、牡蠣はカキフライだよ。レモンをしぼりかけて、昔ながらのいかり印のウースターソースをかけて食べるのがおいしい。

「檄文」
諸君、正月二日は善通寺にライネコ家一同勢揃いでお詣りして、夕方、善通寺市内の牡蠣料理屋「かき徳」で、カキフライ、牡蠣の酒蒸し、牡蠣飯を食べることにする。今のうちにするべきことは片付けて、気分良く、顔を合わせよう。

ライネケは、ガレージと射場の片付けをすることにする。CBの車検の準備もしなければ。

楽しみだね。

2009年12月3日木曜日

徒然雑草 chica

もう12月ですねえ。
いかがお過ごしでしょうか?
もう!もう!1年終わっちゃうよ!!!


なんだか、焦りばっかで、そりゃ
目も血走るって話ですよ!
眉毛太くなるって話ですよ!
顔も緑になるって話ですよ!

サンタクロースは来ないし
きっと君は来ないし、(誰が?)
来年は来るし!

まあ、とりあえず皆さん
師走に走って転けないようにお気をつけ下さいませ。

     chica