2019年4月15日月曜日

また一年が経った

去年の今頃、伊予ばあちゃんが、ベッドから滑り落ちて、起き上がれなくなるという事件が起きて、一年が過ぎた。
あれから、彼女も、我々も、一歳、年とったわけだ。

去年は、いろいろな事件があって、彼女にとっても我々にとっても、記憶に残る出来事が多かった。

Chicaさんの、松山空襲について伊予ばあちゃんの話の聞き語り記録が、暮しの手帖の特集に採用されたことに端を発して、2回もNHKから取材に愛媛までやって来てくれ、NHKのクローズアップ現代に伊予ばあちゃんが登場し、ついにテレビデビューを果たした。さらに、愛媛新聞社も伊予ばあちゃんを取材にやって来て、伊予ばあちゃんはすっかり時の人になった。怖いな。
某日、彼女は歯医者さんに行きたいと言い出した。
このスロープを作っておいてよかった。
ネコパコに手を引いてもらって、
そろそろ降りて、車に向かう。
ネコパコの心遣いのおかげで、ちょっとお洒落なうしろ姿

夏は、松前町の役場裏の公園に、世界を回ってるサーカス団が、大きな大きなテントを張って、2ヶ月の長きにわたって、公演した。我が医院にも、サーカス団の外人さん(チリ人の男性とスロバキア人の女性)が二人も、皮膚の問題で受診しにやって来て、サービスの切符を何枚もくれたので、医院のスタッフや家族が、揃って、演技を見に行った。いい思い出になった。

年末には、アメリカからやって来て、エミフルでサンタクロースとして出演するはずだったアメリカ人のお爺さんが、足にひどい感染症を起こして、当院を受診して、ライネケ院長は、日米親善のために、自ら点滴の針を持って、頑張った。

とにかく、一年間、いろいろあった。

義農公園にて
七分咲きの花の前
春の光を浴びて

今年は、伊予ばあちゃんと一緒に、ライネケとネコパコと3人で、我が町の義農公園の桜を見に行った。去年は隣町の端っこの運動公園まで、車で行ったが、今回は、車椅子を押して、歩いて行った。

彼女とともに、あと何回、桜を見られるのだろう。

ライネケにとって、彼女は武家の女とでもいうか、とにかく気丈な人であった。目的のためには手段を選ばず、歯を食いしばって、艱難に耐え、塵も積もれば山となる式の努力を惜しまない、というふうに見えた。ライネケは、あの性質が自分に伝わっていないのを、何度、恨めしく思ったことか。

94才になり、足腰も気力もずいぶん衰えた。しかし、まだ、侮れない部分がある。

46年前、ライネケが二度目の受験に失敗し、東京の4畳半の下宿でしょんぼり途方にくれている時、ぱっと上京してきて、「元気をお出し。また、受ければいいじゃないの。来年受験に行くかもしれない所に行ってみようじゃないか。」と言って、文字通り、引っ張り上げるように立ち上がらせて、いやいやながらの息子を引きずるように、まだ上野発だった東北本線の列車に押しこむように乗らせて、仙台まで引っ張って行き、東北大学、松島、瑞巌寺を回って、その日のうちに、また東京に戻り、「お頑張りよ。」と言い残して、愛媛に帰って行った。

あの辛かったときの思い出が、今となっては懐かしい。
翌年、なんとかなってよかった。我ながら、冷や汗ものだった。
あの時の彼女の心中を思うと、胸が痛む。
ごめんよ。お母さん。
あらためて、ありがとう。

お母さん、
カメラは、あっちだよ。
カメラの方を向いてください。

2019年1月30日水曜日

ついに越えた! 話せば長いことながら。

1月26日日曜日の午後、当家のファーストカーであるメルセデス・ベンツがとうとう、大台を突破した。

メルセデス・ベンツ230TE 1991年式
30万キロ 達成おめでとう。
メルセデス君、26年間にわたって、ご苦労さま。
ほぼ我が家の末っ子くんと並行して生きてきたわけだ。
正直言って、買ったとき、ここまで乗り続けるとは思わなかった。


到達場所は双海の最近有名になっている下灘駅の真下付近。
海風が強く、雪がぱらつく寒い日だ。
つかの間の晴れ間だった。


彼を買ったのは、岡山で、1993年5月。
1991年製で、すでに、3万キロ走行の中古だった。

当時、我が家は初代ゴルフカブリオとゴルフ2型を所有していて、ライネケとネコパコとChicaとHarunoとSoraと、5人までは、あのゴルフカブリオの中ですし詰め状態でなんども四国一周をした。ところが、末っ子くんShigeがやって来ると、ちょっとした外出すらゴルフでは無理ということになった。

総勢6人となったキツネコ一家には、5人乗りの小型車は、すでに窮屈だった。まして、長距離を旅行するのであれば、バスが欲しいくらいだ。でも、流行り始めていたワンボックスカーとかミニバンとかいった車は、下品なくせに威張って見えて絶対嫌だ。キャンピングカーみたいなもっともらしいのも嫌いだ。

キャンプするとしても、別にキャンプが趣味というわけじゃないのだ。何かの都合で泊まらなければならないとか、たまたま、気に入った場所で一泊してみたい、という場合にキャンプするだけの話で、キャンプするためにキャンプするわけじゃない。普通の車がいい。

そこで例えばステーションワゴンなんかどうだろう、ということになった。

昔、ゴルフカブリオを滋賀ヤナセで買ったとき、もらったカタログの最後に、ツートンカラーのメルセデス・ベンツのステーションワゴンが、アメリカの何処かの湖畔のキャンプ地に留めてある写真が載っていて、いいなあ、と思ったんだが、ベンツはとても手が届かないと思っていた。

それで、ある日曜日、倉敷市内のスバルの店に行った。店番だったお兄さんは、レガシーのツーリングワゴンは人気車種ですから、値引きはないですよ、と言い、こちらの電話番号も聞かず、カタログもくれなかった。つくづくとろい奴だと思った。この程度の奴を雇ってるような会社はあかん、と思ったよ。

車の中にもどって、ネコパコと一緒に、さあ、どうしよう、と話し合った。ネコパコが、「ヤナセに行ってみない? 日曜日だけど行ってみたら、ひょっとして、ベンツのステーションワゴンがあるかもしれない。見るだけならいいじゃない?」と言った。彼女は、昔、ライネケが、黙ってカブリオのカタログのベンツに見入ってるのを見ていたんだろう。

「それもそうだけど、今日は日曜日だぜ。ヤナセは休みだろう。」と言いながら、岡山ヤナセに向かった。

立派なガラス張りの岡山ヤナセのビルは、2号線沿いの岡山と倉敷の間にあって、やっぱり休みだった。でも、駐車して、店に近づくと、留守番の青年がいて挨拶してきた。ベンツのステーションワゴンに興味が有るんだけど、と話した。彼は、「ああ、今、うちで使ってるのがありますから、見られますか?」と言って、ガレージのシャッターを上げてくれた。頭入れで入れてあって、リアをこちらに向けたその車は売り物じゃない会社の作業車で、ちょっと薄汚れ気味の白色で、リアゲートを引き上げると、広いリアスペースにはジャッキやロープや長靴やら、現場作業の道具が無造作に放り込まれていた。ちょっとくたびれ気味だったが、いかにも現場で働いて役に立ってくれている、という感じが好印象だった。

その留守番役の青年が、「ちょうど今、これの中古が、ヤナセの中古車販売部である岡山の某店にあるはずですから、なんなら見に行かれますか? 社長に電話しておきますから。」と言ってくれたので、「見るだけならいいじゃない?」が、「とにかく見てみようか」ということになった。

その足で、その中古車販売店に行ったら、会社の社長さんという恰幅のいい人が、車を出してくれていた。

見せてくれたメルセデスは、1991年製で、濃紺のMB230TEというものだった。ついさっき岡山ヤナセで見たのと同じグレードだ。メルセデス・ベンツ社のコードネームW124というタイプで、標準は2.8L直列6気筒ガソリンエンジン搭載車なのだが、230TEは、同じボディに2.3リットルの直列4気筒搭載のステーションワゴンだ。

前の持ち主は、この230TEは遅いから280に乗り換えるのだそうだ。かなりのヘビースモーカーだったそうで、タバコの匂いが残っているかもしれない、という話だった。そう言えば、パッセンジャーシートにタバコの火が落ちて小さな穴が空いていた。

ゴルフと比べると、ずいぶん大きいけれど、後ろから見た姿は自己主張が強くなく、3人がけのリアシートの後ろには、それだけでも大きな荷室があり、荷室の床からさらに二人分の後ろ向き補助椅子が起き上がり、それにもシートベルトが付いていて公式に7人掛け7人乗りになる。さらにリアシートを倒すと、大人ふたりが並んで体を伸ばせる完全平面の巨大空間が出現する。

冷やかしと言って悪ければ、参考程度の気分で、出かけたのにかかわらず、いつの間にか、その気になっていた。6人家族に加えて愛媛のおっかさんを乗せることも出来る。その上に、大きな荷室と大きなルーフトップもある。

聞けば、諸費用込みで、現金で500万円だという。新車だと車両代だけでも800万はする。とてもじゃないが、たかが車一台に800万も900万も出せるもんか。でも、500万ならどうかな。

ネコパコが横でささやいた。「そのくらいのお金はあるわよ。こんな時のために倹約してきたんじゃない?」

おいらは、車屋の社長さんに訊いた。
「500万円出すんだったら、ボルボのステーションワゴンの新車が買えますね。」
そしたら、社長が言った。
「お客さん、これにしておかれなさい。あとになって絶対、これにしておいてよかったと思いますから。」

「あとになって絶対、これにしておいてよかったと思いますから。」
これが効いた。
タイヤとバッテリー、バックミラーを新品に交換して、即金で結局550万払ったと思う。

その後、エンジンのヘッドガスケットの吹き抜けやら、エアコンやら、いろいろあったが、十数万キロの頃、愛媛から倉敷に帰る途中、善通寺のあたりで、オートマチックギアが2速からトップに変速せず、ずっと2速のまま、エンジンを唸らせながら、瀬戸大橋をわたって、倉敷にたどり着いたこともあった。その修理の際、ずっと青空駐車していたために傷んだ塗装を、ヤナセで、アメリカのデュポン社から塗料を取り寄せて、オールペイントさせた。

新車のメルセデスを買う気はなく、この車が気に入っていたので、オートマチックギアのリビルト品載せ替えに80万円、オールペイントに120万円、合計200万円ほどかかった。あれから20年近く経つ今、また大分痛んできたMBだが、まだ愛着は尽きない。

そろそろ交換部品の一部が欠品で、本国にもなくなっていて、ヤナセに持ち込んでも相手にしてくれなくなった。やる気のないヤナセに愛想を尽かして、伊予市のOさんのところでずって面倒みてもらっている。早くて安いだけでなく、仕事内容がいいのだ。

1年ほど前、この車と全く同じ230TEで屋根付きガレージ保管の走行距離の短い車が、松山の自動車屋で250万円で売りに出ているというので、心が動いた。Oさんに相談したら、こう言った。
「先生、その車は、なんと言っても、製造後20年経った車ですよ。いくらきれいに見えても、やっぱり新車とは違って、明日は何が起こるか分からない。買った途端に致命的な問題が起こらないとは限らない。たしかに、今の230TEを、これからさらに数年間、このまま乗り続けるとして、時々修理やら何やらにお金がいるでしょう。それでも2ー300万円もあれば、まだかなり乗れるはずでしょう。先生はろくに洗いもせず、荷物を両手に持って、足でドアを蹴飛ばして閉めたり、ずいぶん気楽な使い方をしているけど、もし、中古とはいえ、きれいな車を手に入れたら、そうはいかんでしょう。」

図星だな。それで思いとどまった。

でも、やはり、気になって、ある週末、松山のその自動車屋に電話してみた。出てきた留守番の兄ちゃんが、今日は休みなので担当者がいないから、週が明けてから、連絡してくれと言った。名前も連絡先も聞かれなかった。で、その件はそれまでになった。

もし、おいらが留守番役だったら、当方の名前や連絡先を聴き、「なんなら、今、来てくれたら、お待ちしてます。バッテリーとか外してるし、長い間、寝かした車だから、動かせるかどうかは分からないけど、とにかく、見に来てください。きれいな車ですよ。」てなことを、たとえ出まかせでも、立て板に水でしゃべるだろう。

とにかく、30万キロといえば、地球の赤道を7周回るくらいの距離だ。子どもたちの成長と共に、トランスポーターとして、働き続けた。数えきれない回数、倉敷と吉川、松前との間を往復し、何度も、高知を回って四国一周した。Haruno君が高知に行ったのも、その縁かもしれない。松前に住んでからは、ヨットをルーフトップして浜に通ってくれた。現今の車はずいぶん大きくなって、買ったときは大きく見えたこの230TEが、今どきの車たちの間に停めていると、小さく、つつましく見える。

「あとになって絶対、これにしておいてよかったと思いますから。」
と言われてから、26年経った。結局、ボルボとの比較はできなかったし、以来、自家用車として他の車に乗ったことはないので、これにしておいてよかったかどうか、分からない。

でも、この車がいいと思う。スタイルも好きだし、性能も今でも十分だと思う。不思議なことに、かえって燃費が良くなって来ている。これまでのところは、なにか異常がある時は、不思議に事前に察知して、何とかしてきた。要するに、相性がいいのだろう。

ご苦労さん。我が家の230TE。
ありがとう。

でも、もう少し頑張ってくれ。
40万キロまで乗れるといいな。



2019年1月1日火曜日

明けましておめでとう

明けまして、おめでとう。

例によって、年末の土壇場になって、図案をひねり出すのに苦労した。帰って来ていたShigeに、彼のノートパッドに向かってもらって、彼の横で、指図する。

画面一杯の鼻と小さな目と耳だ。こんな感じにね。うん、そう。ブタじゃないけどな。でもブタでいいんだ。似てて当たり前。ブタもイノシシも同類なんだから。


耳は左右非対称に、目と耳はひとつひとつ色を変えて、そうそう。そんな感じ。
顔の辺りをぼんやりグラデーションで色をつけて。いやいや、もっと薄く、もっともっと。いやそうじゃなくて、青色にしてみて。あれ、元の方がよかった。それ取り消して。もっと薄くして。

いらん、いらん。牙はいらない。ありきたりすぎる。
そうそう。出来た。いい感じじゃないか。

今年は、十干の己(つちのと)と十二支の亥(い・ゐ)の組み合わせである己亥(きがい)にあたる年なので、いのしし年ということになる。つまり、干支法は120年が一回りなのだね。

イノシシ(wild boar)はブタ(pig)の親戚みたいなものだ。この種族は、繁殖力が豊かで、子だくさんだ。今年は、子だくさんのイノシシみたいに豊かな年になるといいな。

昨年は愛媛も水害があって、大変だった。おとなしいブタみたいに平穏な一年であってほしい。

2018年12月24日月曜日

Merry Christmas ! <ライネケ>

今年も、クリスマスツリーを飾る季節がやって来た。

先週半ばも過ぎた頃、我が医院の現れたのは、なんと大男の白いあごひげの豊かな白人さんだ。サンタクロースがやって来たのか、と思った。

残念ながら、いい子にしていたライネケにプレゼントを持ってきてくれたのではなくて、患者さんとしてこられたのだった。
中央がサンタクロースさんのW,R,さん
腫れた右足にスリッパを履いてやって来た。
右端は、その息子さんのA.R.さん
二人ともライネケから見ればずいぶんな大男だ。
右足から脛にかけて、ひどく赤く、腫れ上がって、痛いという。高熱ではないが、発熱もあった。赤さも腫れもかなりのもので、どこか総合病院に入院してもらって、朝な夕な、抗生物質の点滴をしてもらわなきゃ、という印象だ。ただ、全身状態はそれほど冒されてなくて、重症の蜂窩織炎というところで、壊死性筋膜炎という重症感染症ではなさそうだ。もし、壊死性筋膜炎だと、ただちに入院して外科的処置をしなければ命に関わる。

今日が木曜日、明日は金曜日、土日になったら基幹病院は外来が閉まってしまう。とにかく、県立中央病院にでも紹介状を書いて、今日はとにかく、抗生剤を点滴して、明朝、さっさと入院してもらおうと思ったのだが、日本には、息子さんのいる伊予市に短期滞在のつもりで来ているだけで、医療保険も何も無いのだという。だから、当院でも自費診療で、当院で何とかして欲しい、と言うのだね。

う〜ん、と腕組みをして考えた挙句、もう夕方なんだけど、とにかく、これから抗生剤を点滴して、明日また来てもらって、考えるしかない。それにしても、こんな巨漢に、日本人と同じ量の抗生剤でええんかな? ということになってしまった。

金曜日朝、息子さんに付き添われて、彼がやって来た。包帯をとってみると、しめた、昨日より赤みも腫れもましなようだ。熱も昨日より下がっている。これなら、日に二回、朝夕、抗生剤を点滴して、乗りきれるかもしれない。月曜まで頑張れば、月曜には飛行機で、ロサンゼルスに飛んで帰れるという。

それで、金土日と朝夕2回来てもらって、点滴した。いつもは看護婦さんにやってもらうんだが、土曜日からは、ライネケ自ら、点滴の針を刺した。点滴を刺すなんて、もう10数年ぶり、いや、20年くらいやってないかもしれない。

無事、毎回一発で入って、日曜日の夜の最後の点滴が終わって、点滴の針を抜去したときは、ライネケは、医師として、日米友好の責任を果たした気になった。なにせ、日米中韓露とややこしい昨今だからね。

その後、日曜日夜の外来の待合で、ライネケ、ご本人、息子さんと三人並んで記念写真を撮った。翌日月曜日の朝には、ロサンゼルスに向かって、飛行機で帰米するのだという。帰りの飛行機乗るのに差し支えないように、その旨診断書を書き、帰国したら、アメリカの医療機関にかかるための紹介状を英語で書いてあげた。

その後、伊予市に住む息子さんに、携帯電話のCmailで、父上の安否を問うたら、
I heard he is doing good.
っていうことだった。

彼は、毎年このころになると来日して、エミフルでサンタクロースの服を来て、子供たちと写真を撮る仕事をしてたんだって。今年は、とんだ災難だったんだね。楽しみにしてた子供たちもいただろうに、ご自身も子供たちも、残念なことだったろう。

道後で、このクリスマスツリーを買ったのは、十数年前、末っ子くんと一緒の時だった。

とにかく、
Merry Christmas !











2018年8月22日水曜日

「送り火」  <ライネケ>

今年のお盆は暑かった。
自動車の車外温度計を見ていると、真昼に30分ほど、日陰に駐車した後、車にかえって車外温度計を見たら、摂氏40度になっており、走りだしてから38度になった。特に、松山市内は暑かった。松前はそれほどではなかったけど。

そんな中、お墓に行って、お迎えをした。
その前日には、そのためにご飯を炊いたり、いろいろ支度しなければならないらしいのだ。お迎えしたご先祖さまたちの霊にさしあげるお膳を「ご料具(ごりょうぐ)」というらしい。



ライネケの母親である道子お祖母さんが自分の心覚えのために書いたお盆のための支度表。
これを彼女が私たち後継者のために、わざわざ作ったとは思えない。何年前に書いたのかも分からない。文字を見ると、まだしっかりしている。今の彼女の字は、ずいぶん弱々しくなった。

昔の人々が、みなが皆、几帳面で用意周到であったわけではなかろう。それにしても彼女の万事にわたる記録、整理ぶりに、正反対の性格のライネケは辟易して育った。どうして、彼女のそういう部分が自分に伝わらなかったのかと、何度、情けなく思ったことだろう。特に試験の前なんかにはね。



米の炊くべき量なども細かく記録してある。
松山市育ちの彼女は、松前町に嫁いできて、地元の風に従うよう、ライネケの祖母に当たる七重さんから、きっとうるさく教えられたのであろう。

彼女は、以来、毎年毎年、8月13日には、指定通りにご飯を炊き、然るべきおかずを作り、14日には、お膳をお供えして、 15日にはそれらを下げたのであろう。


これがお料具のお膳なんだが、他に、


素麺やら豆やら油揚げやら、いろいろ、長い麻柄(おがら)にぶら下げて、お祭りする。

そして、午後、お膳を下げるとともに、ぶら下げた物たちも取りおろして、お墓にお参りするわけだ。

お墓では、お花と称する「樒(しきみ)」の水を足し、墓石に水をかけ、篤お祖父さんの湯呑みの水をとり換えて差し上げ、お墓の足元で、オガラを焼き、線香に火をつけ、お墓さんの線香立てに立てる。
一門亡魂、成等正覚、頓証菩提、過去聖霊、一仏浄土へ、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・

「南無阿弥陀仏」を合計九回唱えるのだが、四回ずつ二度に分けて唱え、最後の一回はゆっくりと「南あ無う阿あ弥い陀仏つううう」という感じで唱えてお終い。これで、ご先祖さまたちの御霊は西方極楽浄土にお帰りあそばすはずだ。

これで終わりではない。最後の仕上げがある。
例の仏壇にオガラに吊るしていた素麺やら油揚げや、きざんだ茄子やらを持って、お墓の西の海辺に向かう。
お魚さんたち、
いらっしゃあい!
とやっているのではないよ。

西の海に、先ほどのものを流してやる。海が汚れるんじゃないか、とちょっと心配になるが。
見ていると、本当に、魚がやって来て、食べようとした。

沖に向かって、流れ去っていくのを見送る。魚たちがやって来て、食べてくれれば、これも供養ということか。このあたりはチヌと言って、クロダイがよく釣れるんだ。

昔は、町には船大工たちがいて、小さなひな形の小舟を作り、それに、こうした供物を載せ、西海に流したそうだ。舟は一艘ではなくて、同じお盆の行事なので、墓参りを済ませた村人たちが集まって、何艘もの舟を、波打ち際から押し出す。それぞれの舟には点火したロウソクを立ててあり、暮れなずむ西の海に、たくさんの小舟が、ロウソクの明かりを輝かせながら、一斉に岸辺から遠ざかって行くさまは、一種の幻想的な壮観で、一見の価値があったそうな。

道子お祖母さんが嫁いできた頃の松前の町の風習だったという話だ。
「送り火」という言葉にふさわしい光景だったことだろう。
残念ながら、ライネケは見たことがない。





2018年8月17日金曜日

お迎え前

真っ赤なホンダに乗って、Gamaくんが帰ってきた。
ほんの1週間前、アメリカに行って、イギリスでも残り少ないと言われるスピットファイアやモスキートを観てきたんだそうだ。
仕事と趣味が一致しているのだとしたら、幸せなことだな。

当地松前町には、一昔前までは、お盆の時期に、送り火という習慣があって、お墓参りして、ご先祖さまをお迎えし、供養して、お送りする、という習わしだったんだそうだ。

それには、お迎えに先立って、まずお墓に行って、掃除しなければならない。
というわけで、ネコパコさんやGamaくんと一緒に、浜のお墓に行った。
とにかく、恐ろしく暑かった。
35度くらいあるんじゃないか?


君も手を合わせて、何かお祈りをなさい。祈るべきことはあるはずだろう?


毎月一回倉敷から帰っていた頃は、そのたびに掃除していたから、綺麗だった。こうして、ずっと松前に住むようになると、かえって、お墓から足が遠のいた。
墓石も古いのはずいぶん風化が進んで、読めなくなってきているが、まだ嘉永だの文久だのというのが読める。黒船がやって来た頃だね。


お墓掃除が終わって、お迎えの準備ができた。
そうそうに暑い中を逃げ帰ってみると、ゴロフクは涼しいところを知っていて、窓辺の風が通うところに寝ている。
ネコは元来エジプト原産なので暑さには強いと言うが、本当かな。毛むくじゃらのゴロはさぞ暑いことだろう。


破壊の神の申し子であるGamaくんが帰ってったあと、ガレージの扉を閉める際、ライネケは手持ちのヘルメットの一番まともなやつを、コンクリートの上に、落っことして、パーツの一部を壊してしまった。
不思議なことに、Gamaくんが来ると、かならず何かが壊れる。破壊と創造が一つごとであるなら、それでいいか。

2018年8月2日木曜日

テレビデビュー

皆さん、ネット上で、いろいろ感想を書き込んでいるようだ。

録画のために出てきた彼女が、ちゃんと化粧をしていて、息子のおいらは、一寸びっくりした。それにしても、自分で引いたはずの黛が二重になってて、あわてて、ネコパコさんが、それを横から塗りなおしてやるのが放映されているのには笑ってしまった。

おっかさん、いいですか、頭上げてこっち向いてくださいな。



町じゅうが空襲の大火災に包まれて、燃え落ちて行くのを見た彼女が、「美しい」といったことについて、さまざまのコメントが出ている。

さっと見た中では、おいらとしては、
https://togetter.com/li/1252561?page=2
のページで見た、虚無@nyaccy というひとが 2018-08-01 23:25:46 に書き込んだ意見が、道子さんの気持ちに近いんじゃないかなと思った。

「クロ現で語られた、空襲で燃える街を美しいと感じた女性の話、「心を麻痺させている」とか言ってる人もいるけど、ぼくはそれこそが「素」の感覚だとおもうの。美の本質ってそういう、現実を超えた、沸き立つ、もはや説明できない感覚の事だと思う。きっとただ本当に、圧倒的に美しかったんだとおもう。」

 『「素」の感覚 』というのは言い得て妙だ。「素」とは、英語で言えばplain 、ドイツ語だとeinfachとでも言ったらいいのか。一方、なんとかいうタレントさんのコメントは、理屈の考えというか穿ち過ぎだと思った。


4月以来、道子さんの衰えが目立つようになって、この4ヶ月ほどは、憂鬱だった。この憂鬱はこれからますます濃くなることだろう。
それまで、彼女のことは彼女自身に任せて、自分の好きなようにやっていただいていたのだったが、そうも行かなくなってきた。

自然は巧妙に出来ていて、人間も自然の一部のはずなんだが、ひとは成り行きに任せておくわけにはいかないのだ。老木が弱って、やがて、倒れて朽ちていくようには行かない。なんとか飲み食いさせて、身ぎれいに保ってあげて、気持ちがいいように過ごしてもらいたい。

ロナのように、ふとある朝、気づいたときにはいなくなって、この世から退場したらしいと気づく、なんていうわけにはいかないのが人間なのだ。

ここんところ、なにやかにやと彼女を引っ張り出し、彼女もそれなりに頑張ったようだけど、消える前のろうそくみたいになるんじゃないかな、と心配だった。

彼女は、自分に回ってきた舞台に、みずから進んで立ったのだろうか、本当は、迷惑だったのだろうか。それとも、働いてくれる周りの人々の一生懸命に応えるべく、ある程度無理して、役柄を演じてくれたのだろうか。

録画中、彼女を横で見守っていた私には、彼女は、それなりに楽しんでくれているように見えた。今回の一連の事件は、彼女にとって、いいことだったのだろう。

最近、3日前から、調子が悪くて、とうとう来たか!?と思った。明日の放映はみられるのかなあ?なんて気をもんだけど、昨日の夕には大分元気になって、自室の食卓の前で居眠りしている彼女を起こして、3人で、彼女の居間のテレビに見入った。

それにしても、軍用犬として出征して行った犬のアドヴィンくんの話は泣けたね。写真じゃなくて絵だったので、ひとしお、心にこたえたな。
ねこなべにして食っちゃうぞ、という話も、その手紙を付けた人は、悪気があったわけではなくて、きっと猫好きで、自分とこにあそびに来たねこを撫でたり餌をやったりした挙句、ちょっと冗談めかした手紙を付けて返してやったんじゃないかな、と思いたい。

今回の仕掛け人であったChicaさんも、えらく、強そうな女性みたいな感じで映ってたね。ホースからほとばしる水が印象的だったよ。

皆の衆、元気でな。