2020年3月6日金曜日

渋・・さんのこと(3)

彼は、フランス語の学習に関して、アテネ・フランセのフランス人の先生がえらく熱心に、生徒の口の中に指を突っ込んで、発音を教えるんだ、と話してくれた。フランス語のrの発音はこんなのだと言って、例の痰を切るときのような喉頭摩擦音を聞かせてくれるのだ。フランス人たちの自国語に対する誇りとそれを外国人に教えるときの徹底ぶりを、目を丸くして、ライネケに語るのだった。申し訳ないが、毎日、受験英語に明け暮れていて、フランス語どころではなかったライネケは、あっけにとられて聞いていた。

のんびりした性格のライネケは、いろいろあって、とうとう結果的には3浪目を迎えてしまい、すでに山口大学の医学部は退学して、もう行き場所はなくなっていたのだった。これで何とかならなければ、親にも援助してくれた叔父にも、噂を聞いている同級生たちにも、誰にもあわす顔がない、という状況に追い込まれてしまった。それで、さすがに3年目は、もうなりふりかまわぬ受験態勢に入った。1年目からやっとけば早く済んだかもしれなかったが、それがライネケのライネケたる所以なのだった。

「赤シャツ」君にも、今は、フランス語やらに首を突っ込んでないで、とにかく、目の前の難関を突破するために、馬鹿になって受験勉強に取り組んだらどうだ?と言ってやりたかったが、自信満々で余裕ありげな彼の顔を見ると、一時は自分も受験勉強なんてくだらない、というような風をよそおったことがあるライネケには、彼の気持ちが分からないでもなく、偉そうに言うようなことでもなかったし、また、言ってやる義理もなかった。

たまに見かける彼の恋人というのは、鼻筋の長く通った、細面の妖精のような美少女で、彼のお眼鏡にかなったのだろう。後になって、彼は、肉感的な女性は不潔に感じるのだと言っていた。とにかく、彼は、美しい女性を見れば、ためらいなく声をかけられる性格のようだった。

彼女と彼との間がどうなったか。あとで話そう。


つづく

渋・・さんのこと(2)

誰かから、彼のことを聞いていた。
すでに現役で慶応大学の医学部に合格したのだが、東大の理科三類に行くんだと言って、慶応を蹴って、浪人しているんだ、というのだ。当時、慶應医学部は倍率40倍と言われていて、東大に並ぶ超難関だった。

その頃、ライネケは現役で合格した山口大学の医学部を休学し、やがて退学して、東京で浪人していたのだが、もし現役合格の第2志望校が山口大学でなくて、慶応大学だったら、どうだったか。そのまま慶応に行ったかもしれない。実は、ライネケの父親は、福沢諭吉が好きで、大の慶応びいきだったのだ。それで、浪人の末、京都大学の合格発表を聞く2,3日前に慶應医学部に合格した時、えらく喜んで、ぜひ慶応に行けと行ったんだが、ライネケは京大に行ったわけだ。

「赤シャツ」君は、自分ほどの人間には、明治以来、日本の最高峰の秀才の集まる東大医学部こそがふさわしいのだ、と思ったのだろうか、慶應医学部を辞退して、あえて浪人しているらしかった。愛媛から東京に出てきたライネケみたいな田舎者には、自信に満ちていて、何、たいしたことじゃないよ、という風に見える「赤シャツ」君が、光り輝いて見えた。すごいな、あの慶応を蹴るなんて、東京って、すごい連中がいるもんだな、と思った。

日本一の大都会である東京では、無数の人がひしめき、うごめき合って生きているのだった。電車に乗って東京都市圏を離れても、電車の車窓から見える街並みは途切れることなく、どこまでもどこまでも町が続くのだった。そんな中で日陰者みたいに暮らす予備校生のライネケは、将来に対する不安とひしめき合う秀才に伍して受験勉強を切り抜けるという重圧感に、圧しつぶされそうな気分だった。わざわざしなくてもいい苦労をなぜ?という自虐と負けたくないという自尊心の間で揺れ動く、見栄っ張りで小心な魂だった。

一方、件の「赤シャツ」君は、受験生のはずだのに、たまにしか予備校には顔を出さず、御茶ノ水にあった「アテネ・フランセ」に通って、フランス語を習ったりしていた。ときどき、やはり浪人生らしかった女の子と一緒に歩いたりしていて、受験生仲間から、距離を置いて生きているらしかった。

京都に引っ越したライネケに、
東京の彼から届いた書簡に同封してあった写真
赤いシャツをよく着ていた。
そんな「赤シャツ」君は、ライネケ自身の目から見て、ライネけとは対極の存在のように思えた。田舎者の垢抜けない存在であったライネケが、まるで縁のなさそうな都会的人間と思われる人物の目にとまったのは、どうしてか、いまだに分からない。

彼が、本当に、余裕綽々で自分の前途を自分が勝手に選べるような、いわば人生のエリートであったかどうか、ということは、おいおい分かるだろう。

つづく

2020年3月2日月曜日

渋・・さんのこと(1)

今から50年も前の話だ。
彼と出会ったのは、御茶ノ水にあった予備校にいた頃だった。

当時の予備校には名物の英語教師がいて、その予備校の生徒になりすまして他校のもぐり学生が聴講に来ていてくらいの大盛況の授業だった。その教師が、何のはずみか、赤いTシャツを着て前席に座っていた彼を指さして言った。

「赤シャツ・・・。いやな奴。」

その名物英語教師にとって、300人入りの大教室のかぶりつきで授業を聞いていた一学生の様子に、何か気に障るものがあったのだろう。もちろん、漱石の「坊ちゃん」を思い出してのことだったのだろうが、その時の他の学生たちの反応は思い出せない。


多分1973〜4年ころの赤シャツ氏
田舎者のライネケから見ると、
ちょっとした美少年というふうだった。
どういうわけか、えらく高価そうなバイオリンを見せてくれた。

そんなこんなのある日、授業が終わって、帰ろうとしていたら、彼の方から声をかけてきた。彼との間に何かの縁があったわけでもないし、とにかく、こちらから彼に接近したわけではない。どうして、彼が私に興味を持ったのか、分からない。そんなことも聞かないまま、半世紀が過ぎてしまった。


御茶ノ水のニコライ堂?を背景に、
逆立ちを決める赤シャツ氏
元気な肉体を誇った人だったのに・・。

以来、「赤シャツ」氏である彼とは、電話で話したり、メールのやり取りをしたりしながら、つかず離れずの細々とした関係が続いたのだったが、2週間ほど前、久しぶりで彼からメールが届いた。

開いてみると、驚いたことに、書いてきたのは、彼本人ではなくて、彼の奥さんだった。
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突然のメールにて失礼致します。

主人・渋・悦・・につきましては、昨年より病気療養中の処でございました。
5月末に膵臓癌が見つかりまして以来、8月には国立がんセンター中央病院で手術を受け、回復する事を目標としておりましたが、年末より症状が変わり2月13日に永眠致しました。

葬儀は密葬で行いました。
生前中は、大変お世話になりました。
主人からお知らせするようにと、言われておりました。
メールにてお知らせいたしますことをお許しください。

失礼致します。

渋〇〇
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なんということだろう。
茫然自失ののち、返事のメールを書き送った。

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渋〇〇さま、

心よりのお悔やみを申し上げます。
突然の訃報に接し、言葉を失いました。

彼と知り合ったのは、私が愛媛の高等学校を卒業して、東京で浪人していた1970年頃で、以来、彼との交友というより、接触が断続的に続きました。
そのころの彼は、非常に才能豊かな生意気盛りの青年で、大抵の同年輩の若者たちを余り高く評価せず、普段ひとりでいたようだったのですが、どういうわけか、私に好意を示してくれて、何かと彼の方から接触してくるようになって、付き合いが始まりました。

そんな格別に親しいというのでもなかった付き合いが、いつの間にか、私にとっては数少ない友人のひとりになっており、ふと、ことあるごとに、渋◯氏は今どうしておるのだろう、とぼんやり考えるような人になっておりました。私の方から積極的に彼に連絡するようなことはほとんどなく、私が外出して運転している最中などに、突然、彼から電話が入ってきて、あたふた返事するようなことが多かったのです。

彼は、私の次男をひどく可愛がってくれて、まるで自分の何かのように、「空ちゃん、空ちゃん」と呼んでくれておりました。
私と彼との間には、世間並みの親友のような密な付き合いはなかったのにもかかわらず、彼は、私の家族のなかで、「渋◯さん」といえば、ちょっと変わってはいるが、私たちを思っていてくれる様な不思議なおじさんとして、共通の話題となるような愛すべき人になっており、妙な不思議な付き合いが続いておりました。私の子どもたちに、今回のことを伝えれば、多分、特別可愛がってもらった次男だけでなく、彼らすべてが、単に父親の私の友人の一人がなくなっちゃったんだって、というのではなく、きっと、心中深く、静かに、彼を悼むことだろうと思います。

最後に彼と直接会ったのは、もう10年前後も前で、国立市の駅で待ち合わせて、話ししました。その頃彼は、マラソンだかに凝っていて、この度のご不幸がなんと言っても、まだ早い、というならば、およそ、早世するようなふうには見えませんでした。

そして、電話で最後に彼の声を聞いたのは、去年の秋だったか、彼が、転倒して目を負傷してしまったと言ってきたので、そりゃ大変じゃないか、お大切に、と申し上げ、それ以来、彼の眼はどうなったんだろう、と、時々思い浮かべておりました。

もう一度彼と会って話をしたいと思うのですが、もう出来ないのですね。

まだ、正直、信じられないような気持ちですが、今はもう、彼の冥福を祈るばかりです。彼は私より一つほど年下のはずです。さほど遠くないいつか彼とまた会うことになるでしょう。しばらく寂しなるねと、宮◯がそう言っていたと、彼の霊前に、お伝え下さい。

ご丁寧にお伝えいただいてありがとうございました。

さようなら
 拝

追伸:なお、もしなにかあるようでしたら、下記までご連絡頂きたく存じます。云々
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<つづく>

2019年4月15日月曜日

また一年が経った

去年の今頃、伊予ばあちゃんが、ベッドから滑り落ちて、起き上がれなくなるという事件が起きて、一年が過ぎた。
あれから、彼女も、我々も、一歳、年とったわけだ。

去年は、いろいろな事件があって、彼女にとっても我々にとっても、記憶に残る出来事が多かった。

Chicaさんの、松山空襲について伊予ばあちゃんの話の聞き語り記録が、暮しの手帖の特集に採用されたことに端を発して、2回もNHKから取材に愛媛までやって来てくれ、NHKのクローズアップ現代に伊予ばあちゃんが登場し、ついにテレビデビューを果たした。さらに、愛媛新聞社も伊予ばあちゃんを取材にやって来て、伊予ばあちゃんはすっかり時の人になった。怖いな。
某日、彼女は歯医者さんに行きたいと言い出した。
このスロープを作っておいてよかった。
ネコパコに手を引いてもらって、
そろそろ降りて、車に向かう。
ネコパコの心遣いのおかげで、ちょっとお洒落なうしろ姿

夏は、松前町の役場裏の公園に、世界を回ってるサーカス団が、大きな大きなテントを張って、2ヶ月の長きにわたって、公演した。我が医院にも、サーカス団の外人さん(チリ人の男性とスロバキア人の女性)が二人も、皮膚の問題で受診しにやって来て、サービスの切符を何枚もくれたので、医院のスタッフや家族が、揃って、演技を見に行った。いい思い出になった。

年末には、アメリカからやって来て、エミフルでサンタクロースとして出演するはずだったアメリカ人のお爺さんが、足にひどい感染症を起こして、当院を受診して、ライネケ院長は、日米親善のために、自ら点滴の針を持って、頑張った。

とにかく、一年間、いろいろあった。

義農公園にて
七分咲きの花の前
春の光を浴びて

今年は、伊予ばあちゃんと一緒に、ライネケとネコパコと3人で、我が町の義農公園の桜を見に行った。去年は隣町の端っこの運動公園まで、車で行ったが、今回は、車椅子を押して、歩いて行った。

彼女とともに、あと何回、桜を見られるのだろう。

ライネケにとって、彼女は武家の女とでもいうか、とにかく気丈な人であった。目的のためには手段を選ばず、歯を食いしばって、艱難に耐え、塵も積もれば山となる式の努力を惜しまない、というふうに見えた。ライネケは、あの性質が自分に伝わっていないのを、何度、恨めしく思ったことか。

94才になり、足腰も気力もずいぶん衰えた。しかし、まだ、侮れない部分がある。

46年前、ライネケが二度目の受験に失敗し、東京の4畳半の下宿でしょんぼり途方にくれている時、ぱっと上京してきて、「元気をお出し。また、受ければいいじゃないの。来年受験に行くかもしれない所に行ってみようじゃないか。」と言って、文字通り、引っ張り上げるように立ち上がらせて、いやいやながらの息子を引きずるように、まだ上野発だった東北本線の列車に押しこむように乗らせて、仙台まで引っ張って行き、東北大学、松島、瑞巌寺を回って、その日のうちに、また東京に戻り、「お頑張りよ。」と言い残して、愛媛に帰って行った。

あの辛かったときの思い出が、今となっては懐かしい。
翌年、なんとかなってよかった。我ながら、冷や汗ものだった。
あの時の彼女の心中を思うと、胸が痛む。
ごめんよ。お母さん。
あらためて、ありがとう。

お母さん、
カメラは、あっちだよ。
カメラの方を向いてください。

2019年1月30日水曜日

ついに越えた! 話せば長いことながら。

1月26日日曜日の午後、当家のファーストカーであるメルセデス・ベンツがとうとう、大台を突破した。

メルセデス・ベンツ230TE 1991年式
30万キロ 達成おめでとう。
メルセデス君、26年間にわたって、ご苦労さま。
ほぼ我が家の末っ子くんと並行して生きてきたわけだ。
正直言って、買ったとき、ここまで乗り続けるとは思わなかった。


到達場所は双海の最近有名になっている下灘駅の真下付近。
海風が強く、雪がぱらつく寒い日だ。
つかの間の晴れ間だった。


彼を買ったのは、岡山で、1993年5月。
1991年製で、すでに、3万キロ走行の中古だった。

当時、我が家は初代ゴルフカブリオとゴルフ2型を所有していて、ライネケとネコパコとChicaとHarunoとSoraと、5人までは、あのゴルフカブリオの中ですし詰め状態でなんども四国一周をした。ところが、末っ子くんShigeがやって来ると、ちょっとした外出すらゴルフでは無理ということになった。

総勢6人となったキツネコ一家には、5人乗りの小型車は、すでに窮屈だった。まして、長距離を旅行するのであれば、バスが欲しいくらいだ。でも、流行り始めていたワンボックスカーとかミニバンとかいった車は、下品なくせに威張って見えて絶対嫌だ。キャンピングカーみたいなもっともらしいのも嫌いだ。

キャンプするとしても、別にキャンプが趣味というわけじゃないのだ。何かの都合で泊まらなければならないとか、たまたま、気に入った場所で一泊してみたい、という場合にキャンプするだけの話で、キャンプするためにキャンプするわけじゃない。普通の車がいい。

そこで例えばステーションワゴンなんかどうだろう、ということになった。

昔、ゴルフカブリオを滋賀ヤナセで買ったとき、もらったカタログの最後に、ツートンカラーのメルセデス・ベンツのステーションワゴンが、アメリカの何処かの湖畔のキャンプ地に留めてある写真が載っていて、いいなあ、と思ったんだが、ベンツはとても手が届かないと思っていた。

それで、ある日曜日、倉敷市内のスバルの店に行った。店番だったお兄さんは、レガシーのツーリングワゴンは人気車種ですから、値引きはないですよ、と言い、こちらの電話番号も聞かず、カタログもくれなかった。つくづくとろい奴だと思った。この程度の奴を雇ってるような会社はあかん、と思ったよ。

車の中にもどって、ネコパコと一緒に、さあ、どうしよう、と話し合った。ネコパコが、「ヤナセに行ってみない? 日曜日だけど行ってみたら、ひょっとして、ベンツのステーションワゴンがあるかもしれない。見るだけならいいじゃない?」と言った。彼女は、昔、ライネケが、黙ってカブリオのカタログのベンツに見入ってるのを見ていたんだろう。

「それもそうだけど、今日は日曜日だぜ。ヤナセは休みだろう。」と言いながら、岡山ヤナセに向かった。

立派なガラス張りの岡山ヤナセのビルは、2号線沿いの岡山と倉敷の間にあって、やっぱり休みだった。でも、駐車して、店に近づくと、留守番の青年がいて挨拶してきた。ベンツのステーションワゴンに興味が有るんだけど、と話した。彼は、「ああ、今、うちで使ってるのがありますから、見られますか?」と言って、ガレージのシャッターを上げてくれた。頭入れで入れてあって、リアをこちらに向けたその車は売り物じゃない会社の作業車で、ちょっと薄汚れ気味の白色で、リアゲートを引き上げると、広いリアスペースにはジャッキやロープや長靴やら、現場作業の道具が無造作に放り込まれていた。ちょっとくたびれ気味だったが、いかにも現場で働いて役に立ってくれている、という感じが好印象だった。

その留守番役の青年が、「ちょうど今、これの中古が、ヤナセの中古車販売部である岡山の某店にあるはずですから、なんなら見に行かれますか? 社長に電話しておきますから。」と言ってくれたので、「見るだけならいいじゃない?」が、「とにかく見てみようか」ということになった。

その足で、その中古車販売店に行ったら、会社の社長さんという恰幅のいい人が、車を出してくれていた。

見せてくれたメルセデスは、1991年製で、濃紺のMB230TEというものだった。ついさっき岡山ヤナセで見たのと同じグレードだ。メルセデス・ベンツ社のコードネームW124というタイプで、標準は2.8L直列6気筒ガソリンエンジン搭載車なのだが、230TEは、同じボディに2.3リットルの直列4気筒搭載のステーションワゴンだ。

前の持ち主は、この230TEは遅いから280に乗り換えるのだそうだ。かなりのヘビースモーカーだったそうで、タバコの匂いが残っているかもしれない、という話だった。そう言えば、パッセンジャーシートにタバコの火が落ちて小さな穴が空いていた。

ゴルフと比べると、ずいぶん大きいけれど、後ろから見た姿は自己主張が強くなく、3人がけのリアシートの後ろには、それだけでも大きな荷室があり、荷室の床からさらに二人分の後ろ向き補助椅子が起き上がり、それにもシートベルトが付いていて公式に7人掛け7人乗りになる。さらにリアシートを倒すと、大人ふたりが並んで体を伸ばせる完全平面の巨大空間が出現する。

冷やかしと言って悪ければ、参考程度の気分で、出かけたのにかかわらず、いつの間にか、その気になっていた。6人家族に加えて愛媛のおっかさんを乗せることも出来る。その上に、大きな荷室と大きなルーフトップもある。

聞けば、諸費用込みで、現金で500万円だという。新車だと車両代だけでも800万はする。とてもじゃないが、たかが車一台に800万も900万も出せるもんか。でも、500万ならどうかな。

ネコパコが横でささやいた。「そのくらいのお金はあるわよ。こんな時のために倹約してきたんじゃない?」

おいらは、車屋の社長さんに訊いた。
「500万円出すんだったら、ボルボのステーションワゴンの新車が買えますね。」
そしたら、社長が言った。
「お客さん、これにしておかれなさい。あとになって絶対、これにしておいてよかったと思いますから。」

「あとになって絶対、これにしておいてよかったと思いますから。」
これが効いた。
タイヤとバッテリー、バックミラーを新品に交換して、即金で結局550万払ったと思う。

その後、エンジンのヘッドガスケットの吹き抜けやら、エアコンやら、いろいろあったが、十数万キロの頃、愛媛から倉敷に帰る途中、善通寺のあたりで、オートマチックギアが2速からトップに変速せず、ずっと2速のまま、エンジンを唸らせながら、瀬戸大橋をわたって、倉敷にたどり着いたこともあった。その修理の際、ずっと青空駐車していたために傷んだ塗装を、ヤナセで、アメリカのデュポン社から塗料を取り寄せて、オールペイントさせた。

新車のメルセデスを買う気はなく、この車が気に入っていたので、オートマチックギアのリビルト品載せ替えに80万円、オールペイントに120万円、合計200万円ほどかかった。あれから20年近く経つ今、また大分痛んできたMBだが、まだ愛着は尽きない。

そろそろ交換部品の一部が欠品で、本国にもなくなっていて、ヤナセに持ち込んでも相手にしてくれなくなった。やる気のないヤナセに愛想を尽かして、伊予市のOさんのところでずって面倒みてもらっている。早くて安いだけでなく、仕事内容がいいのだ。

1年ほど前、この車と全く同じ230TEで屋根付きガレージ保管の走行距離の短い車が、松山の自動車屋で250万円で売りに出ているというので、心が動いた。Oさんに相談したら、こう言った。
「先生、その車は、なんと言っても、製造後20年経った車ですよ。いくらきれいに見えても、やっぱり新車とは違って、明日は何が起こるか分からない。買った途端に致命的な問題が起こらないとは限らない。たしかに、今の230TEを、これからさらに数年間、このまま乗り続けるとして、時々修理やら何やらにお金がいるでしょう。それでも2ー300万円もあれば、まだかなり乗れるはずでしょう。先生はろくに洗いもせず、荷物を両手に持って、足でドアを蹴飛ばして閉めたり、ずいぶん気楽な使い方をしているけど、もし、中古とはいえ、きれいな車を手に入れたら、そうはいかんでしょう。」

図星だな。それで思いとどまった。

でも、やはり、気になって、ある週末、松山のその自動車屋に電話してみた。出てきた留守番の兄ちゃんが、今日は休みなので担当者がいないから、週が明けてから、連絡してくれと言った。名前も連絡先も聞かれなかった。で、その件はそれまでになった。

もし、おいらが留守番役だったら、当方の名前や連絡先を聴き、「なんなら、今、来てくれたら、お待ちしてます。バッテリーとか外してるし、長い間、寝かした車だから、動かせるかどうかは分からないけど、とにかく、見に来てください。きれいな車ですよ。」てなことを、たとえ出まかせでも、立て板に水でしゃべるだろう。

とにかく、30万キロといえば、地球の赤道を7周回るくらいの距離だ。子どもたちの成長と共に、トランスポーターとして、働き続けた。数えきれない回数、倉敷と吉川、松前との間を往復し、何度も、高知を回って四国一周した。Haruno君が高知に行ったのも、その縁かもしれない。松前に住んでからは、ヨットをルーフトップして浜に通ってくれた。現今の車はずいぶん大きくなって、買ったときは大きく見えたこの230TEが、今どきの車たちの間に停めていると、小さく、つつましく見える。

「あとになって絶対、これにしておいてよかったと思いますから。」
と言われてから、26年経った。結局、ボルボとの比較はできなかったし、以来、自家用車として他の車に乗ったことはないので、これにしておいてよかったかどうか、分からない。

でも、この車がいいと思う。スタイルも好きだし、性能も今でも十分だと思う。不思議なことに、かえって燃費が良くなって来ている。これまでのところは、なにか異常がある時は、不思議に事前に察知して、何とかしてきた。要するに、相性がいいのだろう。

ご苦労さん。我が家の230TE。
ありがとう。

でも、もう少し頑張ってくれ。
40万キロまで乗れるといいな。



2019年1月1日火曜日

明けましておめでとう

明けまして、おめでとう。

例によって、年末の土壇場になって、図案をひねり出すのに苦労した。帰って来ていたShigeに、彼のノートパッドに向かってもらって、彼の横で、指図する。

画面一杯の鼻と小さな目と耳だ。こんな感じにね。うん、そう。ブタじゃないけどな。でもブタでいいんだ。似てて当たり前。ブタもイノシシも同類なんだから。


耳は左右非対称に、目と耳はひとつひとつ色を変えて、そうそう。そんな感じ。
顔の辺りをぼんやりグラデーションで色をつけて。いやいや、もっと薄く、もっともっと。いやそうじゃなくて、青色にしてみて。あれ、元の方がよかった。それ取り消して。もっと薄くして。

いらん、いらん。牙はいらない。ありきたりすぎる。
そうそう。出来た。いい感じじゃないか。

今年は、十干の己(つちのと)と十二支の亥(い・ゐ)の組み合わせである己亥(きがい)にあたる年なので、いのしし年ということになる。つまり、干支法は120年が一回りなのだね。

イノシシ(wild boar)はブタ(pig)の親戚みたいなものだ。この種族は、繁殖力が豊かで、子だくさんだ。今年は、子だくさんのイノシシみたいに豊かな年になるといいな。

昨年は愛媛も水害があって、大変だった。おとなしいブタみたいに平穏な一年であってほしい。

2018年12月24日月曜日

Merry Christmas ! <ライネケ>

今年も、クリスマスツリーを飾る季節がやって来た。

先週半ばも過ぎた頃、我が医院の現れたのは、なんと大男の白いあごひげの豊かな白人さんだ。サンタクロースがやって来たのか、と思った。

残念ながら、いい子にしていたライネケにプレゼントを持ってきてくれたのではなくて、患者さんとしてこられたのだった。
中央がサンタクロースさんのW,R,さん
腫れた右足にスリッパを履いてやって来た。
右端は、その息子さんのA.R.さん
二人ともライネケから見ればずいぶんな大男だ。
右足から脛にかけて、ひどく赤く、腫れ上がって、痛いという。高熱ではないが、発熱もあった。赤さも腫れもかなりのもので、どこか総合病院に入院してもらって、朝な夕な、抗生物質の点滴をしてもらわなきゃ、という印象だ。ただ、全身状態はそれほど冒されてなくて、重症の蜂窩織炎というところで、壊死性筋膜炎という重症感染症ではなさそうだ。もし、壊死性筋膜炎だと、ただちに入院して外科的処置をしなければ命に関わる。

今日が木曜日、明日は金曜日、土日になったら基幹病院は外来が閉まってしまう。とにかく、県立中央病院にでも紹介状を書いて、今日はとにかく、抗生剤を点滴して、明朝、さっさと入院してもらおうと思ったのだが、日本には、息子さんのいる伊予市に短期滞在のつもりで来ているだけで、医療保険も何も無いのだという。だから、当院でも自費診療で、当院で何とかして欲しい、と言うのだね。

う〜ん、と腕組みをして考えた挙句、もう夕方なんだけど、とにかく、これから抗生剤を点滴して、明日また来てもらって、考えるしかない。それにしても、こんな巨漢に、日本人と同じ量の抗生剤でええんかな? ということになってしまった。

金曜日朝、息子さんに付き添われて、彼がやって来た。包帯をとってみると、しめた、昨日より赤みも腫れもましなようだ。熱も昨日より下がっている。これなら、日に二回、朝夕、抗生剤を点滴して、乗りきれるかもしれない。月曜まで頑張れば、月曜には飛行機で、ロサンゼルスに飛んで帰れるという。

それで、金土日と朝夕2回来てもらって、点滴した。いつもは看護婦さんにやってもらうんだが、土曜日からは、ライネケ自ら、点滴の針を刺した。点滴を刺すなんて、もう10数年ぶり、いや、20年くらいやってないかもしれない。

無事、毎回一発で入って、日曜日の夜の最後の点滴が終わって、点滴の針を抜去したときは、ライネケは、医師として、日米友好の責任を果たした気になった。なにせ、日米中韓露とややこしい昨今だからね。

その後、日曜日夜の外来の待合で、ライネケ、ご本人、息子さんと三人並んで記念写真を撮った。翌日月曜日の朝には、ロサンゼルスに向かって、飛行機で帰米するのだという。帰りの飛行機乗るのに差し支えないように、その旨診断書を書き、帰国したら、アメリカの医療機関にかかるための紹介状を英語で書いてあげた。

その後、伊予市に住む息子さんに、携帯電話のCmailで、父上の安否を問うたら、
I heard he is doing good.
っていうことだった。

彼は、毎年このころになると来日して、エミフルでサンタクロースの服を来て、子供たちと写真を撮る仕事をしてたんだって。今年は、とんだ災難だったんだね。楽しみにしてた子供たちもいただろうに、ご自身も子供たちも、残念なことだったろう。

道後で、このクリスマスツリーを買ったのは、十数年前、末っ子くんと一緒の時だった。

とにかく、
Merry Christmas !