2020年9月7日月曜日

きつねこ島の決闘


我が家の屋上菜園は、今やサハラ砂漠なみに焦熱地獄なのだが、それでも自然は強くて、こんな収穫があった。
これだけじゃないぞ。もっと沢山あったんだぞ。

それで、暑さの余り、お馬鹿な夫婦がまたまた阿呆なことを・・・。
細いのと丸いのと、へちまも人間もいろいろあって、それがいい。
うそっぽいけど。

今日は、日射しは強いけれど、風は涼しくて、過ごしやすい気がする。

台風10号が、最初四国直撃かと思われたのに、だんだん西に移動して、九州の西を通って、朝鮮半島を縦断する方向に向かった。過去最大級だそうな。

結局、台風は、愛媛では雨はあまり降らず、風だけだったみたいで、今朝は、かなり強い風が時々、音を立てながら吹き過ぎてゆく。少なかったとはいえ、雨が降ったのは久しぶりじゃないかな?駐車場のえごの木やヤマボウシに水をやらないで済むのはありがたい。

秋が近いようだ。皆の衆は元気かな?







2020年5月4日月曜日

お知らせ

お別れの前日夕方、塩屋の浜まで乗って行って、別れを惜しんだ。
松前に帰って来て以来15年経った。
年間10回前後、アクアミューズを積載してこの浜辺に行き、
ヨット遊びに興じるライネケを、辛抱強く待っていてくれた。
絵になる車だ。
1993年以来、28年間にわたって、我が家のトランスポーターとして働いてくれた、ダークブルーのメルセデスが、ついに、引退することになった。

この5年ほどの間の僚友であったルポ君と並んで、
別れを惜しむ
倉敷で買って以来、何度か引っ越したけれど、最初の岡山ナンバーのままで来た。
ものぐさなライネケは、めったに洗ってもやらず、埃まみれだった。
ごめんよ。


総走行距離31万キロを超えた。
28年前、わが家族の一員になってから、28万キロほど走ってくれた。
左が後継車、右が去り行こうとするメルセデス君
同じメルセデスのW124形式車だが、微妙に違うな。
両者にはさまれる3人のうち、右の人物は、後継車を奈良から自走して届けてくれたAさん。このあと、先代のメルセデスに乗って、奈良まで帰られた。
Aさんが運転して、奈良に向かって去って行くメルセデスくん

長い間、ご苦労さま。
どうか、余生に幸あらんことを。
ありがとう。










2020年4月19日日曜日

春日遅々として

日曜日だというのに、きつねこ工務店は、お仕事でした。

懸案のコロナ対策のための外来受付の遮蔽幕だ。

材料費:支柱4本 440円(100均で)、 
    透明ビニールシート130x3m 3256円、 
    シート引っ掛け金具428円 
    シート上端保持材として竹棒二本は0円
施工費:二人3時間 出精値引きの上、0円でご奉仕
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     総工費 4121円

某工務店に頼むと25000円ほどの見積もりだった。

なんと言っても、支柱が一本110円。4本でも440円。
ダイソーというのはすごいね。

それほどみすぼらしくもなくて、事務長の反対もなかったし。


プロレタリアートのお二人さん、ご苦労様でした。

私が付けているマスクは、事務長の手作りだよ。

2020年4月3日金曜日

ついにやって来た

とうとう、わが松前町にもやって来た。

今日4月3日付けの愛媛新聞朝刊の一面
日経新聞には出てないみたいだ。
わが町は、松山市のベッドタウン化しつつあり、一時は西日本最大と言われたこともあるショッピングモールであるエミフルもあるし、航空機の機体にも使われる炭素繊維の世界生産の数分の一を生産し、時々は外国の人もやって来る東洋レーヨン松前工場があるのだから、新型コロナウィルス感染症が、わが町にやって来てもおかしくない、と思っていた。

お隣の松山市は、四国最大級の観光都市で、一時は、道後温泉は中国語であふれていたし、そこらを歩いている人たちを片っ端から、検査してみたら、陽性になる人が出るだろう。不顕性感染の人が増えて、集団免疫が成立するまで、ペストやコレラのように騒ぎは続くだろう。

まあ、なるべく人間間距離を2m以上とって、マスクして、小声で最小限しゃべって、ひっそり暮らすのがいいんじゃないか。それにしても、どうして、日本では、イタリアみたいに死者だらけにならないのか分からない。これからか?

金と人の命とどちらが大切なんだ?と、大声で「正論」を主張するのはいいが、世界経済が破綻すれば、金だけでなく、人の命も生活も破壊されるだろう。世界大恐慌の時は、自殺者も増えた。経済活動を含めて、人の生活、社会の活動、すべてのバランスを考えなければならないだろう。

2020年3月10日火曜日

渋・・さんのこと(6)

薄氷の一年の後、ようやくライネケは、晴れてあこがれの京都大学に学ぶことになって、東京の下宿で引越しの支度や何やかやしていた頃、「赤シャツ氏」に声をかけられた。お茶でも付き合わないか、と言うのだ。

「赤シャツ氏」は、他の浪人生たちとの交わりはほとんどないようで、少し年上で、何だかぼんやりしていて、ちょっと浮世離れしたところのあるライネケに、他の若い秀才連とは違う何かを感じて、興味を惹かれたらしかった。実際のライネケは、見栄も何もかも捨てた受験態勢の一年間だったのだが、不思議なことに彼はライネケに親近感をいだいてくれたようなのだ。

3月終わりのある夜、彼と地下鉄に乗って、丸の内線のどこかで降りて、少し歩いたところの喫茶店に入った。どうやら有名なコーヒー専門店らしかった。「赤シャツ氏」は、ライネケが特段のコーヒー好きであることを知っていたようだ。

店に入ると、カウンターの向こうに、若い男が立っており、フロアーには、先客らしい中年の婦人がテーブルに向かってコーヒーのカップを前にして座っていた。我々は、少し離れた大型の丸テーブルに並んで座り、ブレンドコーヒーを注文した。

カウンターの向こうで、店の男がコーヒーをドリップし始めた。ガスの炎にかけた長く細い注ぎ口の付いたドリップポットの湯が沸騰すると、彼は、左手に持った柄付きのネルのフィルターの中に入ったコーヒーの粉に湯を注ぎ始めた。見ていると、左手に持つフィルターの上で右手のドリップポットを上下に動かして、念入りに注いでいくのだった。ずいぶんな時間の後、ようやく真っ黒な液が、カウンターに載せた小さな銅の容器の中に滴下し始めるのを、ライネケと赤シャツ氏は見ていた。

男が、二人のコーヒーカップを運んできてくれた。小さなカップの底には、いかにも濃厚そうな真っ黒の抽出液が入っていた。砂糖壺はどこだ。ミルクは? ライネケはテーブルの上を見回した。

その時、後ろから声が聞こえた。さっきの中年女性だ。
「あのう、ミルクをいただけませんか?」

男の答えに、ライネケは身をすくめた。
「お客さん、いきなりミルクなんか入れちゃっちゃあ、コーヒーの味が分かんなくなっちゃいますよ。」

その時の女性の反応がどうだったか、思い出せない、というより、聞いている余裕がなかったのだ。ライネケと赤シャツ氏の二人は、目を見合わせて、黙って、そのコーヒーを砂糖もミルクもないままに、すすっていた。

突然、和服の初老の女性が店に入ってきた。真っ直ぐに、カウンターの前を奥に向かって足早に通り過ぎながら、はっきりした声で言った。
「・・ちゃん、今朝のコーヒー、美味しかったわよ。」

カウンターの向こうの男は、ほとんど直立せんばかりだったように思う。大きな声で答えた。
「ありがとうございます!」

今も、ライネケは、週二回ほど、庭でコーヒーの生豆を煎って、紙フィルターでドリップして、一日2,3杯ほど飲む。こうして自分で煎ったコーヒーを飲むようになって、50年近く経った。コーヒーについての思い出は、いろいろあって、さまざまの豆や淹れ方を試みてきた。実は、豆がなくなったりした時は、インスタントのコーヒーでも差し支えない。それで十分美味しいと思えることが多いのだ。

あの店で、赤シャツ氏と二人で飲んだ時のことを、今も時々思い出す。面白かったけど、あれは、一体どこのなんていう店だったのかしらん。
















2020年3月9日月曜日

渋・・さんのこと(5)

予備校の授業が終わって、午後から図書館に行くと、夜9時45分まで、閲覧室が使えた。冷暖房が備わっていて、ありがたかった。周囲が皆一生懸命勉強しているのだから、勉強しないわけにはいかなかった。夕食は、席札を受付に預けて、近くの食堂でとった。

広い閲覧室フロアには、新聞台区域があった。ときどき休憩時間は、順繰りに6誌の新聞を読んで、昼寝もして、夜9時45分の閉館まで粘る。その後、夜の新宿駅を歩いて、小田急線に乗って帰宅する。当時は、新宿駅の広場で、フーテンとかいうような連中が、シンナーの袋をあおるように吸いながら、ふらついていた。ガード下で、バナナの叩き売りの口上を聞いて、バナナを買ったりした。

下宿に帰ると、夜のコーヒーを飲み、文学書などは読まず、冒険小説やスリラー、サスペンス物を読んで、12時までには就寝する。決して夜更かし、朝寝坊はしない。よほど優秀でない限り、大概の頭脳の持ち主は、妙に文学青年ぶってデカダンを気取ったりしていては、合格できない。受験というのは至って、現実的、かつ戦略的なものなのだった。

四谷図書館が休みの時には、東大図書館や時には成城駅の近くの図書館にも行った。東大図書館は、御茶ノ水から本郷方面に歩いて、東大の赤門をくぐったすぐにあり、入館証がいるのだが、T叔父が工面してくれた。肩身が狭かったけど、手に持った入館証をさし上げて、顔を伏せながら、銭湯の番台の下を通るようにして入った。その後も、京大図書館や同志社大学図書館など、いろいろな図書館に入ったが、東大図書館の閲覧室ほど大きな図書館は知らない。大抵、人はあまりいなくて、暗くて広大な閲覧室の中に、ずらりと並んでひとりずつ仕切られて閲覧灯の付いた閲覧ブースに、隠れるようにして、勉強した。冬のスチーム暖房の放熱器の金属音がまだ耳の奥に残っている。

本郷通りには、アカデミアミュージックという輸入楽譜専門店があって、よく入った。その一隅に、黒檀に象牙のリングの入ったドルメッチのレコーダーが陳列してあって、晴れて合格したら買おうと思ったけど、結局買わなかった。つくづく自分のけちさ加減が悔やまれるよ。

とにかく、2浪目の受験の最終日、これはやっぱり駄目だ、と思った翌日から数えて、翌年の3月5日までの365日のうち330日、図書館に通った。意地みたいになって印をつけたから間違いない。そしたら合格した。

「赤シャツ」君が、恋愛し、バイオリンを弾き、フランス語を習い、歌舞伎座に通って、東京大学理科三類に楽々と合格できたかどうかは、次のお楽しみということにしよう。


つづく

渋・・さんのこと(4)

当時の大学入試体制は、今とは大分違っていた。共通一次などというものはなく、自分が受けたければ、どんな高望みであろうが受験できた。国立大学と私立大学があり、国立大学は、受験日により一期校と二期校に分けられ、チャンスが2回だけあった。戦前からの旧帝国大学は一期校に属していた。医学部は全国でも数少なくて、国立大学医学部は、今のように各県にはなく、たとえば、四国四県で医学部を持つのは徳島大学だけだった。どうしても東大に入りたい、という人は、3月初めの一期校の入試で、上位80人の中に入れなければ、また一年待たなければならない。

なりふりかまわぬ受験態勢ってどういうのか、というと、別になんということもない。要するに、朝は早起きをし、夜はさっさと寝てしまう。三度三度の食事は必ずとる。予備校の授業は一時限目から必ず出席し、できるだけ前の方の席に座る。予備校が終われば、一休みのあと、図書館に行って、勉強する。平日だけでなく、日曜日も祭日も、熱が出たりして体調がわるい時も、とにかく図書館に行って、一時間だけでも図書館の机に向かう。そのようなことだ。

東京に来てみて分かったことは、図書館がそのような勉強の環境を提供しているということだった。

国鉄御茶ノ水駅の神田川を挟んだ向かいに地下鉄丸の内線御茶ノ水駅があり、地下鉄で四谷三丁目駅を降りると、近くに新宿区立四谷図書館があった。行ったら、受付で席札をもらい、その頃は6人掛けの机に向かって、横の人に気を使いながら座って、勉強する。大抵、お隣は一般社会人らしい人たちで、公務員試験とか、司法試験とか、中には珠算の検定試験の勉強をしてたりする。もちろん、皆お互いに迷惑をかけないように、静かにしているのだから、珠算と言ったって、ソロバンは使わない、問題集を見ながら、机の上で指だけ動かして演習している。すごい。みんな生きるために努力しているのだ、と、いまさらながら自分の甘さが身にしみた。盛夏時には、日曜日に行くと、9時開館だというのに、すでに8時前から、二階の入り口から一階までずらりと行列が出来ていた。


つづく


2020年3月6日金曜日

渋・・さんのこと(3)

彼は、フランス語の学習に関して、アテネ・フランセのフランス人の先生がえらく熱心に、生徒の口の中に指を突っ込んで、発音を教えるんだ、と話してくれた。フランス語のrの発音はこんなのだと言って、例の痰を切るときのような喉頭摩擦音を聞かせてくれるのだ。フランス人たちの自国語に対する誇りとそれを外国人に教えるときの徹底ぶりを、目を丸くして、ライネケに語るのだった。申し訳ないが、毎日、受験英語に明け暮れていて、フランス語どころではなかったライネケは、あっけにとられて聞いていた。

のんびりした性格のライネケは、いろいろあって、とうとう結果的には3浪目を迎えてしまい、すでに山口大学の医学部は退学して、もう行き場所はなくなっていたのだった。これで何とかならなければ、親にも援助してくれた叔父にも、噂を聞いている同級生たちにも、誰にもあわす顔がない、という状況に追い込まれてしまった。それで、さすがに3年目は、もうなりふりかまわぬ受験態勢に入った。1年目からやっとけば早く済んだかもしれなかったが、それがライネケのライネケたる所以なのだった。

「赤シャツ」君にも、今は、フランス語やらに首を突っ込んでないで、とにかく、目の前の難関を突破するために、馬鹿になって受験勉強に取り組んだらどうだ?と言ってやりたかったが、自信満々で余裕ありげな彼の顔を見ると、一時は自分も受験勉強なんてくだらない、というような風をよそおったことがあるライネケには、彼の気持ちが分からないでもなく、偉そうに言うようなことでもなかったし、また、言ってやる義理もなかった。

たまに見かける彼の恋人というのは、鼻筋の長く通った、細面の妖精のような美少女で、彼のお眼鏡にかなったのだろう。後になって、彼は、肉感的な女性は不潔に感じるのだと言っていた。とにかく、彼は、美しい女性を見れば、ためらいなく声をかけられる性格のようだった。

彼女と彼との間がどうなったか。あとで話そう。


つづく

渋・・さんのこと(2)

誰かから、彼のことを聞いていた。
すでに現役で慶応大学の医学部に合格したのだが、東大の理科三類に行くんだと言って、慶応を蹴って、浪人しているんだ、というのだ。当時、慶應医学部は倍率40倍と言われていて、東大に並ぶ超難関だった。

その頃、ライネケは現役で合格した山口大学の医学部を休学し、やがて退学して、東京で浪人していたのだが、もし現役合格の第2志望校が山口大学でなくて、慶応大学だったら、どうだったか。そのまま慶応に行ったかもしれない。実は、ライネケの父親は、福沢諭吉が好きで、大の慶応びいきだったのだ。それで、浪人の末、京都大学の合格発表を聞く2,3日前に慶應医学部に合格した時、えらく喜んで、ぜひ慶応に行けと行ったんだが、ライネケは京大に行ったわけだ。

「赤シャツ」君は、自分ほどの人間には、明治以来、日本の最高峰の秀才の集まる東大医学部こそがふさわしいのだ、と思ったのだろうか、慶應医学部を辞退して、あえて浪人しているらしかった。愛媛から東京に出てきたライネケみたいな田舎者には、自信に満ちていて、何、たいしたことじゃないよ、という風に見える「赤シャツ」君が、光り輝いて見えた。すごいな、あの慶応を蹴るなんて、東京って、すごい連中がいるもんだな、と思った。

日本一の大都会である東京では、無数の人がひしめき、うごめき合って生きているのだった。電車に乗って東京都市圏を離れても、電車の車窓から見える街並みは途切れることなく、どこまでもどこまでも町が続くのだった。そんな中で日陰者みたいに暮らす予備校生のライネケは、将来に対する不安とひしめき合う秀才に伍して受験勉強を切り抜けるという重圧感に、圧しつぶされそうな気分だった。わざわざしなくてもいい苦労をなぜ?という自虐と負けたくないという自尊心の間で揺れ動く、見栄っ張りで小心な魂だった。

一方、件の「赤シャツ」君は、受験生のはずだのに、たまにしか予備校には顔を出さず、御茶ノ水にあった「アテネ・フランセ」に通って、フランス語を習ったりしていた。ときどき、やはり浪人生らしかった女の子と一緒に歩いたりしていて、受験生仲間から、距離を置いて生きているらしかった。

京都に引っ越したライネケに、
東京の彼から届いた書簡に同封してあった写真
赤いシャツをよく着ていた。
そんな「赤シャツ」君は、ライネケ自身の目から見て、ライネけとは対極の存在のように思えた。田舎者の垢抜けない存在であったライネケが、まるで縁のなさそうな都会的人間と思われる人物の目にとまったのは、どうしてか、いまだに分からない。

彼が、本当に、余裕綽々で自分の前途を自分が勝手に選べるような、いわば人生のエリートであったかどうか、ということは、おいおい分かるだろう。

つづく

2020年3月2日月曜日

渋・・さんのこと(1)

今から50年も前の話だ。
彼と出会ったのは、御茶ノ水にあった予備校にいた頃だった。

当時の予備校には名物の英語教師がいて、その予備校の生徒になりすまして他校のもぐり学生が聴講に来ていてくらいの大盛況の授業だった。その教師が、何のはずみか、赤いTシャツを着て前席に座っていた彼を指さして言った。

「赤シャツ・・・。いやな奴。」

その名物英語教師にとって、300人入りの大教室のかぶりつきで授業を聞いていた一学生の様子に、何か気に障るものがあったのだろう。もちろん、漱石の「坊ちゃん」を思い出してのことだったのだろうが、その時の他の学生たちの反応は思い出せない。


多分1973〜4年ころの赤シャツ氏
田舎者のライネケから見ると、
ちょっとした美少年というふうだった。
どういうわけか、えらく高価そうなバイオリンを見せてくれた。

そんなこんなのある日、授業が終わって、帰ろうとしていたら、彼の方から声をかけてきた。彼との間に何かの縁があったわけでもないし、とにかく、こちらから彼に接近したわけではない。どうして、彼が私に興味を持ったのか、分からない。そんなことも聞かないまま、半世紀が過ぎてしまった。


御茶ノ水のニコライ堂?を背景に、
逆立ちを決める赤シャツ氏
元気な肉体を誇った人だったのに・・。

以来、「赤シャツ」氏である彼とは、電話で話したり、メールのやり取りをしたりしながら、つかず離れずの細々とした関係が続いたのだったが、2週間ほど前、久しぶりで彼からメールが届いた。

開いてみると、驚いたことに、書いてきたのは、彼本人ではなくて、彼の奥さんだった。
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突然のメールにて失礼致します。

主人・渋・悦・・につきましては、昨年より病気療養中の処でございました。
5月末に膵臓癌が見つかりまして以来、8月には国立がんセンター中央病院で手術を受け、回復する事を目標としておりましたが、年末より症状が変わり2月13日に永眠致しました。

葬儀は密葬で行いました。
生前中は、大変お世話になりました。
主人からお知らせするようにと、言われておりました。
メールにてお知らせいたしますことをお許しください。

失礼致します。

渋〇〇
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なんということだろう。
茫然自失ののち、返事のメールを書き送った。

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渋〇〇さま、

心よりのお悔やみを申し上げます。
突然の訃報に接し、言葉を失いました。

彼と知り合ったのは、私が愛媛の高等学校を卒業して、東京で浪人していた1970年頃で、以来、彼との交友というより、接触が断続的に続きました。
そのころの彼は、非常に才能豊かな生意気盛りの青年で、大抵の同年輩の若者たちを余り高く評価せず、普段ひとりでいたようだったのですが、どういうわけか、私に好意を示してくれて、何かと彼の方から接触してくるようになって、付き合いが始まりました。

そんな格別に親しいというのでもなかった付き合いが、いつの間にか、私にとっては数少ない友人のひとりになっており、ふと、ことあるごとに、渋◯氏は今どうしておるのだろう、とぼんやり考えるような人になっておりました。私の方から積極的に彼に連絡するようなことはほとんどなく、私が外出して運転している最中などに、突然、彼から電話が入ってきて、あたふた返事するようなことが多かったのです。

彼は、私の次男をひどく可愛がってくれて、まるで自分の何かのように、「空ちゃん、空ちゃん」と呼んでくれておりました。
私と彼との間には、世間並みの親友のような密な付き合いはなかったのにもかかわらず、彼は、私の家族のなかで、「渋◯さん」といえば、ちょっと変わってはいるが、私たちを思っていてくれる様な不思議なおじさんとして、共通の話題となるような愛すべき人になっており、妙な不思議な付き合いが続いておりました。私の子どもたちに、今回のことを伝えれば、多分、特別可愛がってもらった次男だけでなく、彼らすべてが、単に父親の私の友人の一人がなくなっちゃったんだって、というのではなく、きっと、心中深く、静かに、彼を悼むことだろうと思います。

最後に彼と直接会ったのは、もう10年前後も前で、国立市の駅で待ち合わせて、話ししました。その頃彼は、マラソンだかに凝っていて、この度のご不幸がなんと言っても、まだ早い、というならば、およそ、早世するようなふうには見えませんでした。

そして、電話で最後に彼の声を聞いたのは、去年の秋だったか、彼が、転倒して目を負傷してしまったと言ってきたので、そりゃ大変じゃないか、お大切に、と申し上げ、それ以来、彼の眼はどうなったんだろう、と、時々思い浮かべておりました。

もう一度彼と会って話をしたいと思うのですが、もう出来ないのですね。

まだ、正直、信じられないような気持ちですが、今はもう、彼の冥福を祈るばかりです。彼は私より一つほど年下のはずです。さほど遠くないいつか彼とまた会うことになるでしょう。しばらく寂しなるねと、宮◯がそう言っていたと、彼の霊前に、お伝え下さい。

ご丁寧にお伝えいただいてありがとうございました。

さようなら
 拝

追伸:なお、もしなにかあるようでしたら、下記までご連絡頂きたく存じます。云々
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<つづく>

2019年4月15日月曜日

また一年が経った

去年の今頃、伊予ばあちゃんが、ベッドから滑り落ちて、起き上がれなくなるという事件が起きて、一年が過ぎた。
あれから、彼女も、我々も、一歳、年とったわけだ。

去年は、いろいろな事件があって、彼女にとっても我々にとっても、記憶に残る出来事が多かった。

Chicaさんの、松山空襲について伊予ばあちゃんの話の聞き語り記録が、暮しの手帖の特集に採用されたことに端を発して、2回もNHKから取材に愛媛までやって来てくれ、NHKのクローズアップ現代に伊予ばあちゃんが登場し、ついにテレビデビューを果たした。さらに、愛媛新聞社も伊予ばあちゃんを取材にやって来て、伊予ばあちゃんはすっかり時の人になった。怖いな。
某日、彼女は歯医者さんに行きたいと言い出した。
このスロープを作っておいてよかった。
ネコパコに手を引いてもらって、
そろそろ降りて、車に向かう。
ネコパコの心遣いのおかげで、ちょっとお洒落なうしろ姿

夏は、松前町の役場裏の公園に、世界を回ってるサーカス団が、大きな大きなテントを張って、2ヶ月の長きにわたって、公演した。我が医院にも、サーカス団の外人さん(チリ人の男性とスロバキア人の女性)が二人も、皮膚の問題で受診しにやって来て、サービスの切符を何枚もくれたので、医院のスタッフや家族が、揃って、演技を見に行った。いい思い出になった。

年末には、アメリカからやって来て、エミフルでサンタクロースとして出演するはずだったアメリカ人のお爺さんが、足にひどい感染症を起こして、当院を受診して、ライネケ院長は、日米親善のために、自ら点滴の針を持って、頑張った。

とにかく、一年間、いろいろあった。

義農公園にて
七分咲きの花の前
春の光を浴びて

今年は、伊予ばあちゃんと一緒に、ライネケとネコパコと3人で、我が町の義農公園の桜を見に行った。去年は隣町の端っこの運動公園まで、車で行ったが、今回は、車椅子を押して、歩いて行った。

彼女とともに、あと何回、桜を見られるのだろう。

ライネケにとって、彼女は武家の女とでもいうか、とにかく気丈な人であった。目的のためには手段を選ばず、歯を食いしばって、艱難に耐え、塵も積もれば山となる式の努力を惜しまない、というふうに見えた。ライネケは、あの性質が自分に伝わっていないのを、何度、恨めしく思ったことか。

94才になり、足腰も気力もずいぶん衰えた。しかし、まだ、侮れない部分がある。

46年前、ライネケが二度目の受験に失敗し、東京の4畳半の下宿でしょんぼり途方にくれている時、ぱっと上京してきて、「元気をお出し。また、受ければいいじゃないの。来年受験に行くかもしれない所に行ってみようじゃないか。」と言って、文字通り、引っ張り上げるように立ち上がらせて、いやいやながらの息子を引きずるように、まだ上野発だった東北本線の列車に押しこむように乗らせて、仙台まで引っ張って行き、東北大学、松島、瑞巌寺を回って、その日のうちに、また東京に戻り、「お頑張りよ。」と言い残して、愛媛に帰って行った。

あの辛かったときの思い出が、今となっては懐かしい。
翌年、なんとかなってよかった。我ながら、冷や汗ものだった。
あの時の彼女の心中を思うと、胸が痛む。
ごめんよ。お母さん。
あらためて、ありがとう。

お母さん、
カメラは、あっちだよ。
カメラの方を向いてください。

2019年1月30日水曜日

ついに越えた! 話せば長いことながら。

1月26日日曜日の午後、当家のファーストカーであるメルセデス・ベンツがとうとう、大台を突破した。

メルセデス・ベンツ230TE 1991年式
30万キロ 達成おめでとう。
メルセデス君、26年間にわたって、ご苦労さま。
ほぼ我が家の末っ子くんと並行して生きてきたわけだ。
正直言って、買ったとき、ここまで乗り続けるとは思わなかった。


到達場所は双海の最近有名になっている下灘駅の真下付近。
海風が強く、雪がぱらつく寒い日だ。
つかの間の晴れ間だった。


彼を買ったのは、岡山で、1993年5月。
1991年製で、すでに、3万キロ走行の中古だった。

当時、我が家は初代ゴルフカブリオとゴルフ2型を所有していて、ライネケとネコパコとChicaとHarunoとSoraと、5人までは、あのゴルフカブリオの中ですし詰め状態でなんども四国一周をした。ところが、末っ子くんShigeがやって来ると、ちょっとした外出すらゴルフでは無理ということになった。

総勢6人となったキツネコ一家には、5人乗りの小型車は、すでに窮屈だった。まして、長距離を旅行するのであれば、バスが欲しいくらいだ。でも、流行り始めていたワンボックスカーとかミニバンとかいった車は、下品なくせに威張って見えて絶対嫌だ。キャンピングカーみたいなもっともらしいのも嫌いだ。

キャンプするとしても、別にキャンプが趣味というわけじゃないのだ。何かの都合で泊まらなければならないとか、たまたま、気に入った場所で一泊してみたい、という場合にキャンプするだけの話で、キャンプするためにキャンプするわけじゃない。普通の車がいい。

そこで例えばステーションワゴンなんかどうだろう、ということになった。

昔、ゴルフカブリオを滋賀ヤナセで買ったとき、もらったカタログの最後に、ツートンカラーのメルセデス・ベンツのステーションワゴンが、アメリカの何処かの湖畔のキャンプ地に留めてある写真が載っていて、いいなあ、と思ったんだが、ベンツはとても手が届かないと思っていた。

それで、ある日曜日、倉敷市内のスバルの店に行った。店番だったお兄さんは、レガシーのツーリングワゴンは人気車種ですから、値引きはないですよ、と言い、こちらの電話番号も聞かず、カタログもくれなかった。つくづくとろい奴だと思った。この程度の奴を雇ってるような会社はあかん、と思ったよ。

車の中にもどって、ネコパコと一緒に、さあ、どうしよう、と話し合った。ネコパコが、「ヤナセに行ってみない? 日曜日だけど行ってみたら、ひょっとして、ベンツのステーションワゴンがあるかもしれない。見るだけならいいじゃない?」と言った。彼女は、昔、ライネケが、黙ってカブリオのカタログのベンツに見入ってるのを見ていたんだろう。

「それもそうだけど、今日は日曜日だぜ。ヤナセは休みだろう。」と言いながら、岡山ヤナセに向かった。

立派なガラス張りの岡山ヤナセのビルは、2号線沿いの岡山と倉敷の間にあって、やっぱり休みだった。でも、駐車して、店に近づくと、留守番の青年がいて挨拶してきた。ベンツのステーションワゴンに興味が有るんだけど、と話した。彼は、「ああ、今、うちで使ってるのがありますから、見られますか?」と言って、ガレージのシャッターを上げてくれた。頭入れで入れてあって、リアをこちらに向けたその車は売り物じゃない会社の作業車で、ちょっと薄汚れ気味の白色で、リアゲートを引き上げると、広いリアスペースにはジャッキやロープや長靴やら、現場作業の道具が無造作に放り込まれていた。ちょっとくたびれ気味だったが、いかにも現場で働いて役に立ってくれている、という感じが好印象だった。

その留守番役の青年が、「ちょうど今、これの中古が、ヤナセの中古車販売部である岡山の某店にあるはずですから、なんなら見に行かれますか? 社長に電話しておきますから。」と言ってくれたので、「見るだけならいいじゃない?」が、「とにかく見てみようか」ということになった。

その足で、その中古車販売店に行ったら、会社の社長さんという恰幅のいい人が、車を出してくれていた。

見せてくれたメルセデスは、1991年製で、濃紺のMB230TEというものだった。ついさっき岡山ヤナセで見たのと同じグレードだ。メルセデス・ベンツ社のコードネームW124というタイプで、標準は2.8L直列6気筒ガソリンエンジン搭載車なのだが、230TEは、同じボディに2.3リットルの直列4気筒搭載のステーションワゴンだ。

前の持ち主は、この230TEは遅いから280に乗り換えるのだそうだ。かなりのヘビースモーカーだったそうで、タバコの匂いが残っているかもしれない、という話だった。そう言えば、パッセンジャーシートにタバコの火が落ちて小さな穴が空いていた。

ゴルフと比べると、ずいぶん大きいけれど、後ろから見た姿は自己主張が強くなく、3人がけのリアシートの後ろには、それだけでも大きな荷室があり、荷室の床からさらに二人分の後ろ向き補助椅子が起き上がり、それにもシートベルトが付いていて公式に7人掛け7人乗りになる。さらにリアシートを倒すと、大人ふたりが並んで体を伸ばせる完全平面の巨大空間が出現する。

冷やかしと言って悪ければ、参考程度の気分で、出かけたのにかかわらず、いつの間にか、その気になっていた。6人家族に加えて愛媛のおっかさんを乗せることも出来る。その上に、大きな荷室と大きなルーフトップもある。

聞けば、諸費用込みで、現金で500万円だという。新車だと車両代だけでも800万はする。とてもじゃないが、たかが車一台に800万も900万も出せるもんか。でも、500万ならどうかな。

ネコパコが横でささやいた。「そのくらいのお金はあるわよ。こんな時のために倹約してきたんじゃない?」

おいらは、車屋の社長さんに訊いた。
「500万円出すんだったら、ボルボのステーションワゴンの新車が買えますね。」
そしたら、社長が言った。
「お客さん、これにしておかれなさい。あとになって絶対、これにしておいてよかったと思いますから。」

「あとになって絶対、これにしておいてよかったと思いますから。」
これが効いた。
タイヤとバッテリー、バックミラーを新品に交換して、即金で結局550万払ったと思う。

その後、エンジンのヘッドガスケットの吹き抜けやら、エアコンやら、いろいろあったが、十数万キロの頃、愛媛から倉敷に帰る途中、善通寺のあたりで、オートマチックギアが2速からトップに変速せず、ずっと2速のまま、エンジンを唸らせながら、瀬戸大橋をわたって、倉敷にたどり着いたこともあった。その修理の際、ずっと青空駐車していたために傷んだ塗装を、ヤナセで、アメリカのデュポン社から塗料を取り寄せて、オールペイントさせた。

新車のメルセデスを買う気はなく、この車が気に入っていたので、オートマチックギアのリビルト品載せ替えに80万円、オールペイントに120万円、合計200万円ほどかかった。あれから20年近く経つ今、また大分痛んできたMBだが、まだ愛着は尽きない。

そろそろ交換部品の一部が欠品で、本国にもなくなっていて、ヤナセに持ち込んでも相手にしてくれなくなった。やる気のないヤナセに愛想を尽かして、伊予市のOさんのところでずって面倒みてもらっている。早くて安いだけでなく、仕事内容がいいのだ。

1年ほど前、この車と全く同じ230TEで屋根付きガレージ保管の走行距離の短い車が、松山の自動車屋で250万円で売りに出ているというので、心が動いた。Oさんに相談したら、こう言った。
「先生、その車は、なんと言っても、製造後20年経った車ですよ。いくらきれいに見えても、やっぱり新車とは違って、明日は何が起こるか分からない。買った途端に致命的な問題が起こらないとは限らない。たしかに、今の230TEを、これからさらに数年間、このまま乗り続けるとして、時々修理やら何やらにお金がいるでしょう。それでも2ー300万円もあれば、まだかなり乗れるはずでしょう。先生はろくに洗いもせず、荷物を両手に持って、足でドアを蹴飛ばして閉めたり、ずいぶん気楽な使い方をしているけど、もし、中古とはいえ、きれいな車を手に入れたら、そうはいかんでしょう。」

図星だな。それで思いとどまった。

でも、やはり、気になって、ある週末、松山のその自動車屋に電話してみた。出てきた留守番の兄ちゃんが、今日は休みなので担当者がいないから、週が明けてから、連絡してくれと言った。名前も連絡先も聞かれなかった。で、その件はそれまでになった。

もし、おいらが留守番役だったら、当方の名前や連絡先を聴き、「なんなら、今、来てくれたら、お待ちしてます。バッテリーとか外してるし、長い間、寝かした車だから、動かせるかどうかは分からないけど、とにかく、見に来てください。きれいな車ですよ。」てなことを、たとえ出まかせでも、立て板に水でしゃべるだろう。

とにかく、30万キロといえば、地球の赤道を7周回るくらいの距離だ。子どもたちの成長と共に、トランスポーターとして、働き続けた。数えきれない回数、倉敷と吉川、松前との間を往復し、何度も、高知を回って四国一周した。Haruno君が高知に行ったのも、その縁かもしれない。松前に住んでからは、ヨットをルーフトップして浜に通ってくれた。現今の車はずいぶん大きくなって、買ったときは大きく見えたこの230TEが、今どきの車たちの間に停めていると、小さく、つつましく見える。

「あとになって絶対、これにしておいてよかったと思いますから。」
と言われてから、26年経った。結局、ボルボとの比較はできなかったし、以来、自家用車として他の車に乗ったことはないので、これにしておいてよかったかどうか、分からない。

でも、この車がいいと思う。スタイルも好きだし、性能も今でも十分だと思う。不思議なことに、かえって燃費が良くなって来ている。これまでのところは、なにか異常がある時は、不思議に事前に察知して、何とかしてきた。要するに、相性がいいのだろう。

ご苦労さん。我が家の230TE。
ありがとう。

でも、もう少し頑張ってくれ。
40万キロまで乗れるといいな。



2019年1月1日火曜日

明けましておめでとう

明けまして、おめでとう。

例によって、年末の土壇場になって、図案をひねり出すのに苦労した。帰って来ていたShigeに、彼のノートパッドに向かってもらって、彼の横で、指図する。

画面一杯の鼻と小さな目と耳だ。こんな感じにね。うん、そう。ブタじゃないけどな。でもブタでいいんだ。似てて当たり前。ブタもイノシシも同類なんだから。


耳は左右非対称に、目と耳はひとつひとつ色を変えて、そうそう。そんな感じ。
顔の辺りをぼんやりグラデーションで色をつけて。いやいや、もっと薄く、もっともっと。いやそうじゃなくて、青色にしてみて。あれ、元の方がよかった。それ取り消して。もっと薄くして。

いらん、いらん。牙はいらない。ありきたりすぎる。
そうそう。出来た。いい感じじゃないか。

今年は、十干の己(つちのと)と十二支の亥(い・ゐ)の組み合わせである己亥(きがい)にあたる年なので、いのしし年ということになる。つまり、干支法は120年が一回りなのだね。

イノシシ(wild boar)はブタ(pig)の親戚みたいなものだ。この種族は、繁殖力が豊かで、子だくさんだ。今年は、子だくさんのイノシシみたいに豊かな年になるといいな。

昨年は愛媛も水害があって、大変だった。おとなしいブタみたいに平穏な一年であってほしい。

2018年12月24日月曜日

Merry Christmas ! <ライネケ>

今年も、クリスマスツリーを飾る季節がやって来た。

先週半ばも過ぎた頃、我が医院の現れたのは、なんと大男の白いあごひげの豊かな白人さんだ。サンタクロースがやって来たのか、と思った。

残念ながら、いい子にしていたライネケにプレゼントを持ってきてくれたのではなくて、患者さんとしてこられたのだった。
中央がサンタクロースさんのW,R,さん
腫れた右足にスリッパを履いてやって来た。
右端は、その息子さんのA.R.さん
二人ともライネケから見ればずいぶんな大男だ。
右足から脛にかけて、ひどく赤く、腫れ上がって、痛いという。高熱ではないが、発熱もあった。赤さも腫れもかなりのもので、どこか総合病院に入院してもらって、朝な夕な、抗生物質の点滴をしてもらわなきゃ、という印象だ。ただ、全身状態はそれほど冒されてなくて、重症の蜂窩織炎というところで、壊死性筋膜炎という重症感染症ではなさそうだ。もし、壊死性筋膜炎だと、ただちに入院して外科的処置をしなければ命に関わる。

今日が木曜日、明日は金曜日、土日になったら基幹病院は外来が閉まってしまう。とにかく、県立中央病院にでも紹介状を書いて、今日はとにかく、抗生剤を点滴して、明朝、さっさと入院してもらおうと思ったのだが、日本には、息子さんのいる伊予市に短期滞在のつもりで来ているだけで、医療保険も何も無いのだという。だから、当院でも自費診療で、当院で何とかして欲しい、と言うのだね。

う〜ん、と腕組みをして考えた挙句、もう夕方なんだけど、とにかく、これから抗生剤を点滴して、明日また来てもらって、考えるしかない。それにしても、こんな巨漢に、日本人と同じ量の抗生剤でええんかな? ということになってしまった。

金曜日朝、息子さんに付き添われて、彼がやって来た。包帯をとってみると、しめた、昨日より赤みも腫れもましなようだ。熱も昨日より下がっている。これなら、日に二回、朝夕、抗生剤を点滴して、乗りきれるかもしれない。月曜まで頑張れば、月曜には飛行機で、ロサンゼルスに飛んで帰れるという。

それで、金土日と朝夕2回来てもらって、点滴した。いつもは看護婦さんにやってもらうんだが、土曜日からは、ライネケ自ら、点滴の針を刺した。点滴を刺すなんて、もう10数年ぶり、いや、20年くらいやってないかもしれない。

無事、毎回一発で入って、日曜日の夜の最後の点滴が終わって、点滴の針を抜去したときは、ライネケは、医師として、日米友好の責任を果たした気になった。なにせ、日米中韓露とややこしい昨今だからね。

その後、日曜日夜の外来の待合で、ライネケ、ご本人、息子さんと三人並んで記念写真を撮った。翌日月曜日の朝には、ロサンゼルスに向かって、飛行機で帰米するのだという。帰りの飛行機乗るのに差し支えないように、その旨診断書を書き、帰国したら、アメリカの医療機関にかかるための紹介状を英語で書いてあげた。

その後、伊予市に住む息子さんに、携帯電話のCmailで、父上の安否を問うたら、
I heard he is doing good.
っていうことだった。

彼は、毎年このころになると来日して、エミフルでサンタクロースの服を来て、子供たちと写真を撮る仕事をしてたんだって。今年は、とんだ災難だったんだね。楽しみにしてた子供たちもいただろうに、ご自身も子供たちも、残念なことだったろう。

道後で、このクリスマスツリーを買ったのは、十数年前、末っ子くんと一緒の時だった。

とにかく、
Merry Christmas !











2018年8月22日水曜日

「送り火」  <ライネケ>

今年のお盆は暑かった。
自動車の車外温度計を見ていると、真昼に30分ほど、日陰に駐車した後、車にかえって車外温度計を見たら、摂氏40度になっており、走りだしてから38度になった。特に、松山市内は暑かった。松前はそれほどではなかったけど。

そんな中、お墓に行って、お迎えをした。
その前日には、そのためにご飯を炊いたり、いろいろ支度しなければならないらしいのだ。お迎えしたご先祖さまたちの霊にさしあげるお膳を「ご料具(ごりょうぐ)」というらしい。



ライネケの母親である道子お祖母さんが自分の心覚えのために書いたお盆のための支度表。
これを彼女が私たち後継者のために、わざわざ作ったとは思えない。何年前に書いたのかも分からない。文字を見ると、まだしっかりしている。今の彼女の字は、ずいぶん弱々しくなった。

昔の人々が、みなが皆、几帳面で用意周到であったわけではなかろう。それにしても彼女の万事にわたる記録、整理ぶりに、正反対の性格のライネケは辟易して育った。どうして、彼女のそういう部分が自分に伝わらなかったのかと、何度、情けなく思ったことだろう。特に試験の前なんかにはね。



米の炊くべき量なども細かく記録してある。
松山市育ちの彼女は、松前町に嫁いできて、地元の風に従うよう、ライネケの祖母に当たる七重さんから、きっとうるさく教えられたのであろう。

彼女は、以来、毎年毎年、8月13日には、指定通りにご飯を炊き、然るべきおかずを作り、14日には、お膳をお供えして、 15日にはそれらを下げたのであろう。


これがお料具のお膳なんだが、他に、


素麺やら豆やら油揚げやら、いろいろ、長い麻柄(おがら)にぶら下げて、お祭りする。

そして、午後、お膳を下げるとともに、ぶら下げた物たちも取りおろして、お墓にお参りするわけだ。

お墓では、お花と称する「樒(しきみ)」の水を足し、墓石に水をかけ、篤お祖父さんの湯呑みの水をとり換えて差し上げ、お墓の足元で、オガラを焼き、線香に火をつけ、お墓さんの線香立てに立てる。
一門亡魂、成等正覚、頓証菩提、過去聖霊、一仏浄土へ、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・

「南無阿弥陀仏」を合計九回唱えるのだが、四回ずつ二度に分けて唱え、最後の一回はゆっくりと「南あ無う阿あ弥い陀仏つううう」という感じで唱えてお終い。これで、ご先祖さまたちの御霊は西方極楽浄土にお帰りあそばすはずだ。

これで終わりではない。最後の仕上げがある。
例の仏壇にオガラに吊るしていた素麺やら油揚げや、きざんだ茄子やらを持って、お墓の西の海辺に向かう。
お魚さんたち、
いらっしゃあい!
とやっているのではないよ。

西の海に、先ほどのものを流してやる。海が汚れるんじゃないか、とちょっと心配になるが。
見ていると、本当に、魚がやって来て、食べようとした。

沖に向かって、流れ去っていくのを見送る。魚たちがやって来て、食べてくれれば、これも供養ということか。このあたりはチヌと言って、クロダイがよく釣れるんだ。

昔は、町には船大工たちがいて、小さなひな形の小舟を作り、それに、こうした供物を載せ、西海に流したそうだ。舟は一艘ではなくて、同じお盆の行事なので、墓参りを済ませた村人たちが集まって、何艘もの舟を、波打ち際から押し出す。それぞれの舟には点火したロウソクを立ててあり、暮れなずむ西の海に、たくさんの小舟が、ロウソクの明かりを輝かせながら、一斉に岸辺から遠ざかって行くさまは、一種の幻想的な壮観で、一見の価値があったそうな。

道子お祖母さんが嫁いできた頃の松前の町の風習だったという話だ。
「送り火」という言葉にふさわしい光景だったことだろう。
残念ながら、ライネケは見たことがない。





2018年8月17日金曜日

お迎え前

真っ赤なホンダに乗って、Gamaくんが帰ってきた。
ほんの1週間前、アメリカに行って、イギリスでも残り少ないと言われるスピットファイアやモスキートを観てきたんだそうだ。
仕事と趣味が一致しているのだとしたら、幸せなことだな。

当地松前町には、一昔前までは、お盆の時期に、送り火という習慣があって、お墓参りして、ご先祖さまをお迎えし、供養して、お送りする、という習わしだったんだそうだ。

それには、お迎えに先立って、まずお墓に行って、掃除しなければならない。
というわけで、ネコパコさんやGamaくんと一緒に、浜のお墓に行った。
とにかく、恐ろしく暑かった。
35度くらいあるんじゃないか?


君も手を合わせて、何かお祈りをなさい。祈るべきことはあるはずだろう?


毎月一回倉敷から帰っていた頃は、そのたびに掃除していたから、綺麗だった。こうして、ずっと松前に住むようになると、かえって、お墓から足が遠のいた。
墓石も古いのはずいぶん風化が進んで、読めなくなってきているが、まだ嘉永だの文久だのというのが読める。黒船がやって来た頃だね。


お墓掃除が終わって、お迎えの準備ができた。
そうそうに暑い中を逃げ帰ってみると、ゴロフクは涼しいところを知っていて、窓辺の風が通うところに寝ている。
ネコは元来エジプト原産なので暑さには強いと言うが、本当かな。毛むくじゃらのゴロはさぞ暑いことだろう。


破壊の神の申し子であるGamaくんが帰ってったあと、ガレージの扉を閉める際、ライネケは手持ちのヘルメットの一番まともなやつを、コンクリートの上に、落っことして、パーツの一部を壊してしまった。
不思議なことに、Gamaくんが来ると、かならず何かが壊れる。破壊と創造が一つごとであるなら、それでいいか。

2018年8月2日木曜日

テレビデビュー

皆さん、ネット上で、いろいろ感想を書き込んでいるようだ。

録画のために出てきた彼女が、ちゃんと化粧をしていて、息子のおいらは、一寸びっくりした。それにしても、自分で引いたはずの黛が二重になってて、あわてて、ネコパコさんが、それを横から塗りなおしてやるのが放映されているのには笑ってしまった。

おっかさん、いいですか、頭上げてこっち向いてくださいな。



町じゅうが空襲の大火災に包まれて、燃え落ちて行くのを見た彼女が、「美しい」といったことについて、さまざまのコメントが出ている。

さっと見た中では、おいらとしては、
https://togetter.com/li/1252561?page=2
のページで見た、虚無@nyaccy というひとが 2018-08-01 23:25:46 に書き込んだ意見が、道子さんの気持ちに近いんじゃないかなと思った。

「クロ現で語られた、空襲で燃える街を美しいと感じた女性の話、「心を麻痺させている」とか言ってる人もいるけど、ぼくはそれこそが「素」の感覚だとおもうの。美の本質ってそういう、現実を超えた、沸き立つ、もはや説明できない感覚の事だと思う。きっとただ本当に、圧倒的に美しかったんだとおもう。」

 『「素」の感覚 』というのは言い得て妙だ。「素」とは、英語で言えばplain 、ドイツ語だとeinfachとでも言ったらいいのか。一方、なんとかいうタレントさんのコメントは、理屈の考えというか穿ち過ぎだと思った。


4月以来、道子さんの衰えが目立つようになって、この4ヶ月ほどは、憂鬱だった。この憂鬱はこれからますます濃くなることだろう。
それまで、彼女のことは彼女自身に任せて、自分の好きなようにやっていただいていたのだったが、そうも行かなくなってきた。

自然は巧妙に出来ていて、人間も自然の一部のはずなんだが、ひとは成り行きに任せておくわけにはいかないのだ。老木が弱って、やがて、倒れて朽ちていくようには行かない。なんとか飲み食いさせて、身ぎれいに保ってあげて、気持ちがいいように過ごしてもらいたい。

ロナのように、ふとある朝、気づいたときにはいなくなって、この世から退場したらしいと気づく、なんていうわけにはいかないのが人間なのだ。

ここんところ、なにやかにやと彼女を引っ張り出し、彼女もそれなりに頑張ったようだけど、消える前のろうそくみたいになるんじゃないかな、と心配だった。

彼女は、自分に回ってきた舞台に、みずから進んで立ったのだろうか、本当は、迷惑だったのだろうか。それとも、働いてくれる周りの人々の一生懸命に応えるべく、ある程度無理して、役柄を演じてくれたのだろうか。

録画中、彼女を横で見守っていた私には、彼女は、それなりに楽しんでくれているように見えた。今回の一連の事件は、彼女にとって、いいことだったのだろう。

最近、3日前から、調子が悪くて、とうとう来たか!?と思った。明日の放映はみられるのかなあ?なんて気をもんだけど、昨日の夕には大分元気になって、自室の食卓の前で居眠りしている彼女を起こして、3人で、彼女の居間のテレビに見入った。

それにしても、軍用犬として出征して行った犬のアドヴィンくんの話は泣けたね。写真じゃなくて絵だったので、ひとしお、心にこたえたな。
ねこなべにして食っちゃうぞ、という話も、その手紙を付けた人は、悪気があったわけではなくて、きっと猫好きで、自分とこにあそびに来たねこを撫でたり餌をやったりした挙句、ちょっと冗談めかした手紙を付けて返してやったんじゃないかな、と思いたい。

今回の仕掛け人であったChicaさんも、えらく、強そうな女性みたいな感じで映ってたね。ホースからほとばしる水が印象的だったよ。

皆の衆、元気でな。

2018年7月14日土曜日

ネコパコ沈没

この間の大雨で、平穏だと思ってきた岡山や愛媛にも大災害が発生した。愛媛では、大洲、野村町、吉田町などが水没した。他にも、大きなニュースに上がってないだけで、あんなところが・・と絶句するような地域でも、かなりの被害が出ているようだ。

幸いに、松前町はあまり大きな被害はなかったようだ。でも、平穏無事というのは一種の幻想らしい。将来のことは分からない。
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ネコパコが沈没した。
ずいぶん前から、面倒くさがりのライネケに、3連休はどうするんだ、と訊いて、姫路吉川行きを楽しみにしていた。


よりによって、金曜日の仕事終わり頃から、全身倦怠、のど痛、咳、微熱がはっきりしてきた。久々の土・日・月の三連休だというのに。
前々日、駐車場のシダの茂み刈り、あれやこれやと連休のための準備や手配、それで、熱中症と夏風邪というところかな。

ライネケは、ここ数年、夏の初めになると、なぜだか鼻水が止まらなくなるという現象をのり切って、屋上の日除けネットを掛けた。


これがあると、二階への日差しがかなり減るので、夏になったらやっておかなければならない行事だ。


ほら、ずいぶん違う。

遮光といえば、10年ほど前、挿し木して、伸び出したツタなんだが、


いまでは医院の西側壁面をほぼ完全に覆い尽くそうとしている。
きれいだし、西日をかなり遮ってくれるだろう、と思って、生やしてみたんだが、ここまで行くと、コントロールが出来なくなるおそれがあるな。

そろそろ、考え時かな。

2018年4月10日火曜日

ペラペラヨメナ <ライネケ>

いつだったか、Chicaが持って帰ってくれたペラペラヨメナを植えておいたら、庭の隅で咲いた。いつの間にか、ずいぶん増えているようだ。

どこにでもありそうな雑草
中央アメリカ原産の帰化植物だそうだ。
道端になんとなく生えていて、そこいらを歩いていて視野に入っていても自分をとりまく世界の一部として、気にもとめないで見ているような草花だ。
我々の世界の把握のありようって、その程度のものなのかもしれんな。

朝日の中で
白さが目にしみる
今は白い花なんだが、やがてピンク色にかわるそうで、白旗は源氏、赤旗は平家というわけで、源平小菊って呼ばれたりするらしい。ペラペラヨメナっていうのも、ちょっと気の毒な気がするけど、源平小菊だとずいぶんいかめしく感じる。

鈴木祥太さんによる
彫金のペラペラヨメナ
本物のペラペラヨメナの株と一緒に、Chicaさんは、鈴木祥太さんの彫金作品を呉れた。とても良く出来てるんだが、ややくすんで見えるのは、わざとそういう作風なのか、それとも、店ざらしになってて、金属が古び、錆びたせいなのか。

鈴木さんの他の彫金作品を見ると、あまり色鮮やかなのはなくて、むしろくすんだものが多い印象なので、この作家の作風なのかもしれない。それにしても、花びらはもう少し白くても良いのではないか。しかし、葉の感じ、ひょろりと頼りなげに風に吹かれる茎の長細さ、ちょっと幸薄げな花のつけ方は見事に活写されている。

「こっちにおいで、ゴロちゃん。
ミルクを分けてやろう。」
お天気がいいので、草刈りしたばかりの屋上で、外出中のネコパコが作って行ってくれたサンドイッチとホットミルクの昼食を食べた。向こうでゴロフクがうろついている。

食後の珈琲を飲み、
枯れ草の下から、春の緑が生い出でて、
土を覆いつつあるのを見る。
うまく入ったコーヒーは、ミルクを入れると綺麗な色になる。
海の向こうの国の大詩人は、"Splendor in the grass"(草原の輝き)という米国映画の中で引用された同名の詩で、草原の草には輝やける壮麗さを、花には栄光を見出し、それらが失われても、 その奥に強靭さが残っていると詠った。かの国の人々は、神の恩寵である現世の多様さの裏に神の国の永遠の栄光を思い、雄々しく困難に立ち向かう強さを称えるのだ。

今、咲いたばかりのペラペラヨメナの花や若葉の瑞々しさに比べると、鈴木氏の彫金のペラペラヨメナは、広大な宇宙の片隅で人目につかないささやかな生命の存在そのものを表現しているようにも思える。その存在の意味やその裏にある大いなるものではなく、それを賛美するわけでもなく、ただ、一種の共感と親愛をもって。

ところで、伊予婆さまは、3週間ほど、一生懸命、ネコパコが水やりやら何やら、頑張ってしてくれたおかげで、大分元気になった。いわゆる認知症とかいうようなものではない。ただ、昔のあの人を、あの人たらしめているように思えた強靭な意志力みたいなものが、失われつつあるのじゃないか、という気がする。さびしいけど。








2018年4月5日木曜日

お花見  <ライネケ>

3月31日、最後の土曜日、ライネケとネコパコは、年老いた伊予婆ちゃんを車に乗っけて、10キロほど離れた伊予市の町外れの公園まで、桜を見に行った。

実は、2週間ほど前から、ちょっとした事件があり、93才の彼女の様子が以前と違ってきたような印象があるのだ。
よく気のつくネコパコが、三人でお花見に行こうと提案してくれた。
そう言われてみれば、おいらはあまり親孝行めいたことをした記憶がない。
そうだね。いい機会かもしれないね。

満開の桜を背に
お母さん、顔を上げて、
カメラを見てくださいな。
公園の人ごみから離れていて、しかも、駐車場からなるべく近くて、なるべく枝が低い桜の木まで、彼女に歩いてもらった。ライネケ母は、もう、かたつむりくらいのスピードでしか歩めないのだった。

持参した折りたたみ椅子に座ってもらって、三人で写真を撮った。

カメラに向かって手を振る彼女
草花が好きな人なのだった。
ちょっとピントがボケ気味なのは何故だろう。
彼女がライネケを生んだのは、彼女が25才の時だった。67才の今のライネケにとって、25才の女性なんて、ほんの小娘というようなものなのだが、お母さんもそうだったことだろう。

青少年時代のライネケにとって彼女は、気丈な武家の女という印象だった。ライネケが、何かの折に、元気を失なったり、不甲斐なかったとき、ライネケを叱咤激励してくれた彼女はもういない。

ライネケが、志望校を不合格になり、いやいやながら滑り止めの地方大学を受験に行く時、松山より遠くに行ったことのなかった息子に同道してくれたのが49年前。

ライネケは、その大学に現役合格したものの、どうしても行くのが嫌で、東京の予備校に逃げ出してしまった。そして東京から、愛媛の彼女に電話一本かけて、はるばる海を渡って、その地方大学まで退学届を持って行かせたのが48年前。ひどい話だ。せっかく医師への切符を手にしながら、惜しげもなく捨ててしまう息子のこれからを思って、彼女はどんなにか心痛めたことだろう。

やっと、ライネケが志望の大学に合格して、二人で京都に行って入学手続をし、下宿を探しに行き、京都の町を二人で歩いたのは、もうかれこれ46年前。二人だけで過ごした春の数日間は、ライネケにとっても、彼女にとっても、人生最良の時の一つだったことだろう。少しは恩返しになったかどうか。

爛漫の桜の花を背にして、93才になった彼女が、何かに向かって手を振っている。

ライネケが大学に行き、卒業し、医師として働き、結婚して子どもも増えてきたころも、いつも医院の奥の小部屋で事務仕事をしていた彼女。
ご苦労さまでしたね。



今年の春は、思いの外に急にやってきて、花も急いで散っていった。

花が散り、色があせ、春が過ぎて行くように、人は生まれ、成長し、生き、育て、そして衰え、去っていく。
人々の無数の思いが、この世界には満ち満ちているはずだが、世界は破裂することもなく、静かに時は過ぎていくようなのだ。

不思議なことよ。