2020年9月7日月曜日

きつねこ島の決闘


我が家の屋上菜園は、今やサハラ砂漠なみに焦熱地獄なのだが、それでも自然は強くて、こんな収穫があった。
これだけじゃないぞ。もっと沢山あったんだぞ。

それで、暑さの余り、お馬鹿な夫婦がまたまた阿呆なことを・・・。
細いのと丸いのと、へちまも人間もいろいろあって、それがいい。
うそっぽいけど。

今日は、日射しは強いけれど、風は涼しくて、過ごしやすい気がする。

台風10号が、最初四国直撃かと思われたのに、だんだん西に移動して、九州の西を通って、朝鮮半島を縦断する方向に向かった。過去最大級だそうな。

結局、台風は、愛媛では雨はあまり降らず、風だけだったみたいで、今朝は、かなり強い風が時々、音を立てながら吹き過ぎてゆく。少なかったとはいえ、雨が降ったのは久しぶりじゃないかな?駐車場のえごの木やヤマボウシに水をやらないで済むのはありがたい。

秋が近いようだ。皆の衆は元気かな?







2020年5月4日月曜日

お知らせ

お別れの前日夕方、塩屋の浜まで乗って行って、別れを惜しんだ。
松前に帰って来て以来15年経った。
年間10回前後、アクアミューズを積載してこの浜辺に行き、
ヨット遊びに興じるライネケを、辛抱強く待っていてくれた。
絵になる車だ。
1993年以来、28年間にわたって、我が家のトランスポーターとして働いてくれた、ダークブルーのメルセデスが、ついに、引退することになった。

この5年ほどの間の僚友であったルポ君と並んで、
別れを惜しむ
倉敷で買って以来、何度か引っ越したけれど、最初の岡山ナンバーのままで来た。
ものぐさなライネケは、めったに洗ってもやらず、埃まみれだった。
ごめんよ。


総走行距離31万キロを超えた。
28年前、わが家族の一員になってから、28万キロほど走ってくれた。
左が後継車、右が去り行こうとするメルセデス君
同じメルセデスのW124形式車だが、微妙に違うな。
両者にはさまれる3人のうち、右の人物は、後継車を奈良から自走して届けてくれたAさん。このあと、先代のメルセデスに乗って、奈良まで帰られた。
Aさんが運転して、奈良に向かって去って行くメルセデスくん

長い間、ご苦労さま。
どうか、余生に幸あらんことを。
ありがとう。










2020年4月19日日曜日

春日遅々として

日曜日だというのに、きつねこ工務店は、お仕事でした。

懸案のコロナ対策のための外来受付の遮蔽幕だ。

材料費:支柱4本 440円(100均で)、 
    透明ビニールシート130x3m 3256円、 
    シート引っ掛け金具428円 
    シート上端保持材として竹棒二本は0円
施工費:二人3時間 出精値引きの上、0円でご奉仕
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     総工費 4121円

某工務店に頼むと25000円ほどの見積もりだった。

なんと言っても、支柱が一本110円。4本でも440円。
ダイソーというのはすごいね。

それほどみすぼらしくもなくて、事務長の反対もなかったし。


プロレタリアートのお二人さん、ご苦労様でした。

私が付けているマスクは、事務長の手作りだよ。

2020年4月3日金曜日

ついにやって来た

とうとう、わが松前町にもやって来た。

今日4月3日付けの愛媛新聞朝刊の一面
日経新聞には出てないみたいだ。
わが町は、松山市のベッドタウン化しつつあり、一時は西日本最大と言われたこともあるショッピングモールであるエミフルもあるし、航空機の機体にも使われる炭素繊維の世界生産の数分の一を生産し、時々は外国の人もやって来る東洋レーヨン松前工場があるのだから、新型コロナウィルス感染症が、わが町にやって来てもおかしくない、と思っていた。

お隣の松山市は、四国最大級の観光都市で、一時は、道後温泉は中国語であふれていたし、そこらを歩いている人たちを片っ端から、検査してみたら、陽性になる人が出るだろう。不顕性感染の人が増えて、集団免疫が成立するまで、ペストやコレラのように騒ぎは続くだろう。

まあ、なるべく人間間距離を2m以上とって、マスクして、小声で最小限しゃべって、ひっそり暮らすのがいいんじゃないか。それにしても、どうして、日本では、イタリアみたいに死者だらけにならないのか分からない。これからか?

金と人の命とどちらが大切なんだ?と、大声で「正論」を主張するのはいいが、世界経済が破綻すれば、金だけでなく、人の命も生活も破壊されるだろう。世界大恐慌の時は、自殺者も増えた。経済活動を含めて、人の生活、社会の活動、すべてのバランスを考えなければならないだろう。

2020年3月10日火曜日

渋・・さんのこと(6)

薄氷の一年の後、ようやくライネケは、晴れてあこがれの京都大学に学ぶことになって、東京の下宿で引越しの支度や何やかやしていた頃、「赤シャツ氏」に声をかけられた。お茶でも付き合わないか、と言うのだ。

「赤シャツ氏」は、他の浪人生たちとの交わりはほとんどないようで、少し年上で、何だかぼんやりしていて、ちょっと浮世離れしたところのあるライネケに、他の若い秀才連とは違う何かを感じて、興味を惹かれたらしかった。実際のライネケは、見栄も何もかも捨てた受験態勢の一年間だったのだが、不思議なことに彼はライネケに親近感をいだいてくれたようなのだ。

3月終わりのある夜、彼と地下鉄に乗って、丸の内線のどこかで降りて、少し歩いたところの喫茶店に入った。どうやら有名なコーヒー専門店らしかった。「赤シャツ氏」は、ライネケが特段のコーヒー好きであることを知っていたようだ。

店に入ると、カウンターの向こうに、若い男が立っており、フロアーには、先客らしい中年の婦人がテーブルに向かってコーヒーのカップを前にして座っていた。我々は、少し離れた大型の丸テーブルに並んで座り、ブレンドコーヒーを注文した。

カウンターの向こうで、店の男がコーヒーをドリップし始めた。ガスの炎にかけた長く細い注ぎ口の付いたドリップポットの湯が沸騰すると、彼は、左手に持った柄付きのネルのフィルターの中に入ったコーヒーの粉に湯を注ぎ始めた。見ていると、左手に持つフィルターの上で右手のドリップポットを上下に動かして、念入りに注いでいくのだった。ずいぶんな時間の後、ようやく真っ黒な液が、カウンターに載せた小さな銅の容器の中に滴下し始めるのを、ライネケと赤シャツ氏は見ていた。

男が、二人のコーヒーカップを運んできてくれた。小さなカップの底には、いかにも濃厚そうな真っ黒の抽出液が入っていた。砂糖壺はどこだ。ミルクは? ライネケはテーブルの上を見回した。

その時、後ろから声が聞こえた。さっきの中年女性だ。
「あのう、ミルクをいただけませんか?」

男の答えに、ライネケは身をすくめた。
「お客さん、いきなりミルクなんか入れちゃっちゃあ、コーヒーの味が分かんなくなっちゃいますよ。」

その時の女性の反応がどうだったか、思い出せない、というより、聞いている余裕がなかったのだ。ライネケと赤シャツ氏の二人は、目を見合わせて、黙って、そのコーヒーを砂糖もミルクもないままに、すすっていた。

突然、和服の初老の女性が店に入ってきた。真っ直ぐに、カウンターの前を奥に向かって足早に通り過ぎながら、はっきりした声で言った。
「・・ちゃん、今朝のコーヒー、美味しかったわよ。」

カウンターの向こうの男は、ほとんど直立せんばかりだったように思う。大きな声で答えた。
「ありがとうございます!」

今も、ライネケは、週二回ほど、庭でコーヒーの生豆を煎って、紙フィルターでドリップして、一日2,3杯ほど飲む。こうして自分で煎ったコーヒーを飲むようになって、50年近く経った。コーヒーについての思い出は、いろいろあって、さまざまの豆や淹れ方を試みてきた。実は、豆がなくなったりした時は、インスタントのコーヒーでも差し支えない。それで十分美味しいと思えることが多いのだ。

あの店で、赤シャツ氏と二人で飲んだ時のことを、今も時々思い出す。面白かったけど、あれは、一体どこのなんていう店だったのかしらん。
















2020年3月9日月曜日

渋・・さんのこと(5)

予備校の授業が終わって、午後から図書館に行くと、夜9時45分まで、閲覧室が使えた。冷暖房が備わっていて、ありがたかった。周囲が皆一生懸命勉強しているのだから、勉強しないわけにはいかなかった。夕食は、席札を受付に預けて、近くの食堂でとった。

広い閲覧室フロアには、新聞台区域があった。ときどき休憩時間は、順繰りに6誌の新聞を読んで、昼寝もして、夜9時45分の閉館まで粘る。その後、夜の新宿駅を歩いて、小田急線に乗って帰宅する。当時は、新宿駅の広場で、フーテンとかいうような連中が、シンナーの袋をあおるように吸いながら、ふらついていた。ガード下で、バナナの叩き売りの口上を聞いて、バナナを買ったりした。

下宿に帰ると、夜のコーヒーを飲み、文学書などは読まず、冒険小説やスリラー、サスペンス物を読んで、12時までには就寝する。決して夜更かし、朝寝坊はしない。よほど優秀でない限り、大概の頭脳の持ち主は、妙に文学青年ぶってデカダンを気取ったりしていては、合格できない。受験というのは至って、現実的、かつ戦略的なものなのだった。

四谷図書館が休みの時には、東大図書館や時には成城駅の近くの図書館にも行った。東大図書館は、御茶ノ水から本郷方面に歩いて、東大の赤門をくぐったすぐにあり、入館証がいるのだが、T叔父が工面してくれた。肩身が狭かったけど、手に持った入館証をさし上げて、顔を伏せながら、銭湯の番台の下を通るようにして入った。その後も、京大図書館や同志社大学図書館など、いろいろな図書館に入ったが、東大図書館の閲覧室ほど大きな図書館は知らない。大抵、人はあまりいなくて、暗くて広大な閲覧室の中に、ずらりと並んでひとりずつ仕切られて閲覧灯の付いた閲覧ブースに、隠れるようにして、勉強した。冬のスチーム暖房の放熱器の金属音がまだ耳の奥に残っている。

本郷通りには、アカデミアミュージックという輸入楽譜専門店があって、よく入った。その一隅に、黒檀に象牙のリングの入ったドルメッチのレコーダーが陳列してあって、晴れて合格したら買おうと思ったけど、結局買わなかった。つくづく自分のけちさ加減が悔やまれるよ。

とにかく、2浪目の受験の最終日、これはやっぱり駄目だ、と思った翌日から数えて、翌年の3月5日までの365日のうち330日、図書館に通った。意地みたいになって印をつけたから間違いない。そしたら合格した。

「赤シャツ」君が、恋愛し、バイオリンを弾き、フランス語を習い、歌舞伎座に通って、東京大学理科三類に楽々と合格できたかどうかは、次のお楽しみということにしよう。


つづく

渋・・さんのこと(4)

当時の大学入試体制は、今とは大分違っていた。共通一次などというものはなく、自分が受けたければ、どんな高望みであろうが受験できた。国立大学と私立大学があり、国立大学は、受験日により一期校と二期校に分けられ、チャンスが2回だけあった。戦前からの旧帝国大学は一期校に属していた。医学部は全国でも数少なくて、国立大学医学部は、今のように各県にはなく、たとえば、四国四県で医学部を持つのは徳島大学だけだった。どうしても東大に入りたい、という人は、3月初めの一期校の入試で、上位80人の中に入れなければ、また一年待たなければならない。

なりふりかまわぬ受験態勢ってどういうのか、というと、別になんということもない。要するに、朝は早起きをし、夜はさっさと寝てしまう。三度三度の食事は必ずとる。予備校の授業は一時限目から必ず出席し、できるだけ前の方の席に座る。予備校が終われば、一休みのあと、図書館に行って、勉強する。平日だけでなく、日曜日も祭日も、熱が出たりして体調がわるい時も、とにかく図書館に行って、一時間だけでも図書館の机に向かう。そのようなことだ。

東京に来てみて分かったことは、図書館がそのような勉強の環境を提供しているということだった。

国鉄御茶ノ水駅の神田川を挟んだ向かいに地下鉄丸の内線御茶ノ水駅があり、地下鉄で四谷三丁目駅を降りると、近くに新宿区立四谷図書館があった。行ったら、受付で席札をもらい、その頃は6人掛けの机に向かって、横の人に気を使いながら座って、勉強する。大抵、お隣は一般社会人らしい人たちで、公務員試験とか、司法試験とか、中には珠算の検定試験の勉強をしてたりする。もちろん、皆お互いに迷惑をかけないように、静かにしているのだから、珠算と言ったって、ソロバンは使わない、問題集を見ながら、机の上で指だけ動かして演習している。すごい。みんな生きるために努力しているのだ、と、いまさらながら自分の甘さが身にしみた。盛夏時には、日曜日に行くと、9時開館だというのに、すでに8時前から、二階の入り口から一階までずらりと行列が出来ていた。


つづく


2020年3月6日金曜日

渋・・さんのこと(3)

彼は、フランス語の学習に関して、アテネ・フランセのフランス人の先生がえらく熱心に、生徒の口の中に指を突っ込んで、発音を教えるんだ、と話してくれた。フランス語のrの発音はこんなのだと言って、例の痰を切るときのような喉頭摩擦音を聞かせてくれるのだ。フランス人たちの自国語に対する誇りとそれを外国人に教えるときの徹底ぶりを、目を丸くして、ライネケに語るのだった。申し訳ないが、毎日、受験英語に明け暮れていて、フランス語どころではなかったライネケは、あっけにとられて聞いていた。

のんびりした性格のライネケは、いろいろあって、とうとう結果的には3浪目を迎えてしまい、すでに山口大学の医学部は退学して、もう行き場所はなくなっていたのだった。これで何とかならなければ、親にも援助してくれた叔父にも、噂を聞いている同級生たちにも、誰にもあわす顔がない、という状況に追い込まれてしまった。それで、さすがに3年目は、もうなりふりかまわぬ受験態勢に入った。1年目からやっとけば早く済んだかもしれなかったが、それがライネケのライネケたる所以なのだった。

「赤シャツ」君にも、今は、フランス語やらに首を突っ込んでないで、とにかく、目の前の難関を突破するために、馬鹿になって受験勉強に取り組んだらどうだ?と言ってやりたかったが、自信満々で余裕ありげな彼の顔を見ると、一時は自分も受験勉強なんてくだらない、というような風をよそおったことがあるライネケには、彼の気持ちが分からないでもなく、偉そうに言うようなことでもなかったし、また、言ってやる義理もなかった。

たまに見かける彼の恋人というのは、鼻筋の長く通った、細面の妖精のような美少女で、彼のお眼鏡にかなったのだろう。後になって、彼は、肉感的な女性は不潔に感じるのだと言っていた。とにかく、彼は、美しい女性を見れば、ためらいなく声をかけられる性格のようだった。

彼女と彼との間がどうなったか。あとで話そう。


つづく

渋・・さんのこと(2)

誰かから、彼のことを聞いていた。
すでに現役で慶応大学の医学部に合格したのだが、東大の理科三類に行くんだと言って、慶応を蹴って、浪人しているんだ、というのだ。当時、慶應医学部は倍率40倍と言われていて、東大に並ぶ超難関だった。

その頃、ライネケは現役で合格した山口大学の医学部を休学し、やがて退学して、東京で浪人していたのだが、もし現役合格の第2志望校が山口大学でなくて、慶応大学だったら、どうだったか。そのまま慶応に行ったかもしれない。実は、ライネケの父親は、福沢諭吉が好きで、大の慶応びいきだったのだ。それで、浪人の末、京都大学の合格発表を聞く2,3日前に慶應医学部に合格した時、えらく喜んで、ぜひ慶応に行けと行ったんだが、ライネケは京大に行ったわけだ。

「赤シャツ」君は、自分ほどの人間には、明治以来、日本の最高峰の秀才の集まる東大医学部こそがふさわしいのだ、と思ったのだろうか、慶應医学部を辞退して、あえて浪人しているらしかった。愛媛から東京に出てきたライネケみたいな田舎者には、自信に満ちていて、何、たいしたことじゃないよ、という風に見える「赤シャツ」君が、光り輝いて見えた。すごいな、あの慶応を蹴るなんて、東京って、すごい連中がいるもんだな、と思った。

日本一の大都会である東京では、無数の人がひしめき、うごめき合って生きているのだった。電車に乗って東京都市圏を離れても、電車の車窓から見える街並みは途切れることなく、どこまでもどこまでも町が続くのだった。そんな中で日陰者みたいに暮らす予備校生のライネケは、将来に対する不安とひしめき合う秀才に伍して受験勉強を切り抜けるという重圧感に、圧しつぶされそうな気分だった。わざわざしなくてもいい苦労をなぜ?という自虐と負けたくないという自尊心の間で揺れ動く、見栄っ張りで小心な魂だった。

一方、件の「赤シャツ」君は、受験生のはずだのに、たまにしか予備校には顔を出さず、御茶ノ水にあった「アテネ・フランセ」に通って、フランス語を習ったりしていた。ときどき、やはり浪人生らしかった女の子と一緒に歩いたりしていて、受験生仲間から、距離を置いて生きているらしかった。

京都に引っ越したライネケに、
東京の彼から届いた書簡に同封してあった写真
赤いシャツをよく着ていた。
そんな「赤シャツ」君は、ライネケ自身の目から見て、ライネけとは対極の存在のように思えた。田舎者の垢抜けない存在であったライネケが、まるで縁のなさそうな都会的人間と思われる人物の目にとまったのは、どうしてか、いまだに分からない。

彼が、本当に、余裕綽々で自分の前途を自分が勝手に選べるような、いわば人生のエリートであったかどうか、ということは、おいおい分かるだろう。

つづく

2020年3月2日月曜日

渋・・さんのこと(1)

今から50年も前の話だ。
彼と出会ったのは、御茶ノ水にあった予備校にいた頃だった。

当時の予備校には名物の英語教師がいて、その予備校の生徒になりすまして他校のもぐり学生が聴講に来ていてくらいの大盛況の授業だった。その教師が、何のはずみか、赤いTシャツを着て前席に座っていた彼を指さして言った。

「赤シャツ・・・。いやな奴。」

その名物英語教師にとって、300人入りの大教室のかぶりつきで授業を聞いていた一学生の様子に、何か気に障るものがあったのだろう。もちろん、漱石の「坊ちゃん」を思い出してのことだったのだろうが、その時の他の学生たちの反応は思い出せない。


多分1973〜4年ころの赤シャツ氏
田舎者のライネケから見ると、
ちょっとした美少年というふうだった。
どういうわけか、えらく高価そうなバイオリンを見せてくれた。

そんなこんなのある日、授業が終わって、帰ろうとしていたら、彼の方から声をかけてきた。彼との間に何かの縁があったわけでもないし、とにかく、こちらから彼に接近したわけではない。どうして、彼が私に興味を持ったのか、分からない。そんなことも聞かないまま、半世紀が過ぎてしまった。


御茶ノ水のニコライ堂?を背景に、
逆立ちを決める赤シャツ氏
元気な肉体を誇った人だったのに・・。

以来、「赤シャツ」氏である彼とは、電話で話したり、メールのやり取りをしたりしながら、つかず離れずの細々とした関係が続いたのだったが、2週間ほど前、久しぶりで彼からメールが届いた。

開いてみると、驚いたことに、書いてきたのは、彼本人ではなくて、彼の奥さんだった。
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突然のメールにて失礼致します。

主人・渋・悦・・につきましては、昨年より病気療養中の処でございました。
5月末に膵臓癌が見つかりまして以来、8月には国立がんセンター中央病院で手術を受け、回復する事を目標としておりましたが、年末より症状が変わり2月13日に永眠致しました。

葬儀は密葬で行いました。
生前中は、大変お世話になりました。
主人からお知らせするようにと、言われておりました。
メールにてお知らせいたしますことをお許しください。

失礼致します。

渋〇〇
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なんということだろう。
茫然自失ののち、返事のメールを書き送った。

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渋〇〇さま、

心よりのお悔やみを申し上げます。
突然の訃報に接し、言葉を失いました。

彼と知り合ったのは、私が愛媛の高等学校を卒業して、東京で浪人していた1970年頃で、以来、彼との交友というより、接触が断続的に続きました。
そのころの彼は、非常に才能豊かな生意気盛りの青年で、大抵の同年輩の若者たちを余り高く評価せず、普段ひとりでいたようだったのですが、どういうわけか、私に好意を示してくれて、何かと彼の方から接触してくるようになって、付き合いが始まりました。

そんな格別に親しいというのでもなかった付き合いが、いつの間にか、私にとっては数少ない友人のひとりになっており、ふと、ことあるごとに、渋◯氏は今どうしておるのだろう、とぼんやり考えるような人になっておりました。私の方から積極的に彼に連絡するようなことはほとんどなく、私が外出して運転している最中などに、突然、彼から電話が入ってきて、あたふた返事するようなことが多かったのです。

彼は、私の次男をひどく可愛がってくれて、まるで自分の何かのように、「空ちゃん、空ちゃん」と呼んでくれておりました。
私と彼との間には、世間並みの親友のような密な付き合いはなかったのにもかかわらず、彼は、私の家族のなかで、「渋◯さん」といえば、ちょっと変わってはいるが、私たちを思っていてくれる様な不思議なおじさんとして、共通の話題となるような愛すべき人になっており、妙な不思議な付き合いが続いておりました。私の子どもたちに、今回のことを伝えれば、多分、特別可愛がってもらった次男だけでなく、彼らすべてが、単に父親の私の友人の一人がなくなっちゃったんだって、というのではなく、きっと、心中深く、静かに、彼を悼むことだろうと思います。

最後に彼と直接会ったのは、もう10年前後も前で、国立市の駅で待ち合わせて、話ししました。その頃彼は、マラソンだかに凝っていて、この度のご不幸がなんと言っても、まだ早い、というならば、およそ、早世するようなふうには見えませんでした。

そして、電話で最後に彼の声を聞いたのは、去年の秋だったか、彼が、転倒して目を負傷してしまったと言ってきたので、そりゃ大変じゃないか、お大切に、と申し上げ、それ以来、彼の眼はどうなったんだろう、と、時々思い浮かべておりました。

もう一度彼と会って話をしたいと思うのですが、もう出来ないのですね。

まだ、正直、信じられないような気持ちですが、今はもう、彼の冥福を祈るばかりです。彼は私より一つほど年下のはずです。さほど遠くないいつか彼とまた会うことになるでしょう。しばらく寂しなるねと、宮◯がそう言っていたと、彼の霊前に、お伝え下さい。

ご丁寧にお伝えいただいてありがとうございました。

さようなら
 拝

追伸:なお、もしなにかあるようでしたら、下記までご連絡頂きたく存じます。云々
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<つづく>