2020年3月2日月曜日

渋・・さんのこと(1)

今から50年も前の話だ。
彼と出会ったのは、御茶ノ水にあった予備校にいた頃だった。

当時の予備校には名物の英語教師がいて、その予備校の生徒になりすまして他校のもぐり学生が聴講に来ていてくらいの大盛況の授業だった。その教師が、何のはずみか、赤いTシャツを着て前席に座っていた彼を指さして言った。

「赤シャツ・・・。いやな奴。」

その名物英語教師にとって、300人入りの大教室のかぶりつきで授業を聞いていた一学生の様子に、何か気に障るものがあったのだろう。もちろん、漱石の「坊ちゃん」を思い出してのことだったのだろうが、その時の他の学生たちの反応は思い出せない。


多分1973〜4年ころの赤シャツ氏
田舎者のライネケから見ると、
ちょっとした美少年というふうだった。
どういうわけか、えらく高価そうなバイオリンを見せてくれた。

そんなこんなのある日、授業が終わって、帰ろうとしていたら、彼の方から声をかけてきた。彼との間に何かの縁があったわけでもないし、とにかく、こちらから彼に接近したわけではない。どうして、彼が私に興味を持ったのか、分からない。そんなことも聞かないまま、半世紀が過ぎてしまった。


御茶ノ水のニコライ堂?を背景に、
逆立ちを決める赤シャツ氏
元気な肉体を誇った人だったのに・・。

以来、「赤シャツ」氏である彼とは、電話で話したり、メールのやり取りをしたりしながら、つかず離れずの細々とした関係が続いたのだったが、2週間ほど前、久しぶりで彼からメールが届いた。

開いてみると、驚いたことに、書いてきたのは、彼本人ではなくて、彼の奥さんだった。
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突然のメールにて失礼致します。

主人・渋・悦・・につきましては、昨年より病気療養中の処でございました。
5月末に膵臓癌が見つかりまして以来、8月には国立がんセンター中央病院で手術を受け、回復する事を目標としておりましたが、年末より症状が変わり2月13日に永眠致しました。

葬儀は密葬で行いました。
生前中は、大変お世話になりました。
主人からお知らせするようにと、言われておりました。
メールにてお知らせいたしますことをお許しください。

失礼致します。

渋〇〇
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なんということだろう。
茫然自失ののち、返事のメールを書き送った。

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渋〇〇さま、

心よりのお悔やみを申し上げます。
突然の訃報に接し、言葉を失いました。

彼と知り合ったのは、私が愛媛の高等学校を卒業して、東京で浪人していた1970年頃で、以来、彼との交友というより、接触が断続的に続きました。
そのころの彼は、非常に才能豊かな生意気盛りの青年で、大抵の同年輩の若者たちを余り高く評価せず、普段ひとりでいたようだったのですが、どういうわけか、私に好意を示してくれて、何かと彼の方から接触してくるようになって、付き合いが始まりました。

そんな格別に親しいというのでもなかった付き合いが、いつの間にか、私にとっては数少ない友人のひとりになっており、ふと、ことあるごとに、渋◯氏は今どうしておるのだろう、とぼんやり考えるような人になっておりました。私の方から積極的に彼に連絡するようなことはほとんどなく、私が外出して運転している最中などに、突然、彼から電話が入ってきて、あたふた返事するようなことが多かったのです。

彼は、私の次男をひどく可愛がってくれて、まるで自分の何かのように、「空ちゃん、空ちゃん」と呼んでくれておりました。
私と彼との間には、世間並みの親友のような密な付き合いはなかったのにもかかわらず、彼は、私の家族のなかで、「渋◯さん」といえば、ちょっと変わってはいるが、私たちを思っていてくれる様な不思議なおじさんとして、共通の話題となるような愛すべき人になっており、妙な不思議な付き合いが続いておりました。私の子どもたちに、今回のことを伝えれば、多分、特別可愛がってもらった次男だけでなく、彼らすべてが、単に父親の私の友人の一人がなくなっちゃったんだって、というのではなく、きっと、心中深く、静かに、彼を悼むことだろうと思います。

最後に彼と直接会ったのは、もう10年前後も前で、国立市の駅で待ち合わせて、話ししました。その頃彼は、マラソンだかに凝っていて、この度のご不幸がなんと言っても、まだ早い、というならば、およそ、早世するようなふうには見えませんでした。

そして、電話で最後に彼の声を聞いたのは、去年の秋だったか、彼が、転倒して目を負傷してしまったと言ってきたので、そりゃ大変じゃないか、お大切に、と申し上げ、それ以来、彼の眼はどうなったんだろう、と、時々思い浮かべておりました。

もう一度彼と会って話をしたいと思うのですが、もう出来ないのですね。

まだ、正直、信じられないような気持ちですが、今はもう、彼の冥福を祈るばかりです。彼は私より一つほど年下のはずです。さほど遠くないいつか彼とまた会うことになるでしょう。しばらく寂しなるねと、宮◯がそう言っていたと、彼の霊前に、お伝え下さい。

ご丁寧にお伝えいただいてありがとうございました。

さようなら
 拝

追伸:なお、もしなにかあるようでしたら、下記までご連絡頂きたく存じます。云々
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<つづく>

2 件のコメント:

kurashiki-keiko さんのコメント...

突然の訃報、残念なことでしたね。
私の夫の喪中はがきを出した時には、独身時代に勤めていた会社の兄貴分が、墓参りをしたいと言ってわざわざ東京から訪ねて来られました。
夫が尊敬していた、東京育ち、慶応卒のスマートな人で、以前わが家に泊りに来たこともあったので子供も「カッコいい人だったね」と覚えていました。
その彼が、夫のお墓詣りにわざわざ、と大変ありがたく思ったことでした。
突然の訃報に感じるところがあったものでしょう。
ライネケ様の想いにも通じるところがあるのかなと思います。

ライネケ院長 さんのコメント...

<ライネケ>
kurashiki-keikoさま、
お久しぶりです。コメントありがとうございます。
この話題の主は、ちょっと論評し難い人なのですが、不思議なことに、縁が続き、今、こうして彼ともう会えないのだと思うと、さまざまの想念が行き来して、つらい気持ちになります。
彼は、私たちの子どもたちの中で、とくに例の飛行機少年を可愛がってくれ、一種の擬似家族的な部分があったので、彼の追悼を兼ねて、しばらく、書き続いてみます。