薄氷の一年の後、ようやくライネケは、晴れてあこがれの京都大学に学ぶことになって、東京の下宿で引越しの支度や何やかやしていた頃、「赤シャツ氏」に声をかけられた。お茶でも付き合わないか、と言うのだ。
「赤シャツ氏」は、他の浪人生たちとの交わりはほとんどないようで、少し年上で、何だかぼんやりしていて、ちょっと浮世離れしたところのあるライネケに、他の若い秀才連とは違う何かを感じて、興味を惹かれたらしかった。実際のライネケは、見栄も何もかも捨てた受験態勢の一年間だったのだが、不思議なことに彼はライネケに親近感をいだいてくれたようなのだ。
3月終わりのある夜、彼と地下鉄に乗って、丸の内線のどこかで降りて、少し歩いたところの喫茶店に入った。どうやら有名なコーヒー専門店らしかった。「赤シャツ氏」は、ライネケが特段のコーヒー好きであることを知っていたようだ。
店に入ると、カウンターの向こうに、若い男が立っており、フロアーには、先客らしい中年の婦人がテーブルに向かってコーヒーのカップを前にして座っていた。我々は、少し離れた大型の丸テーブルに並んで座り、ブレンドコーヒーを注文した。
カウンターの向こうで、店の男がコーヒーをドリップし始めた。ガスの炎にかけた長く細い注ぎ口の付いたドリップポットの湯が沸騰すると、彼は、左手に持った柄付きのネルのフィルターの中に入ったコーヒーの粉に湯を注ぎ始めた。見ていると、左手に持つフィルターの上で右手のドリップポットを上下に動かして、念入りに注いでいくのだった。ずいぶんな時間の後、ようやく真っ黒な液が、カウンターに載せた小さな銅の容器の中に滴下し始めるのを、ライネケと赤シャツ氏は見ていた。
男が、二人のコーヒーカップを運んできてくれた。小さなカップの底には、いかにも濃厚そうな真っ黒の抽出液が入っていた。砂糖壺はどこだ。ミルクは? ライネケはテーブルの上を見回した。
その時、後ろから声が聞こえた。さっきの中年女性だ。
「あのう、ミルクをいただけませんか?」
男の答えに、ライネケは身をすくめた。
「お客さん、いきなりミルクなんか入れちゃっちゃあ、コーヒーの味が分かんなくなっちゃいますよ。」
その時の女性の反応がどうだったか、思い出せない、というより、聞いている余裕がなかったのだ。ライネケと赤シャツ氏の二人は、目を見合わせて、黙って、そのコーヒーを砂糖もミルクもないままに、すすっていた。
突然、和服の初老の女性が店に入ってきた。真っ直ぐに、カウンターの前を奥に向かって足早に通り過ぎながら、はっきりした声で言った。
「・・ちゃん、今朝のコーヒー、美味しかったわよ。」
カウンターの向こうの男は、ほとんど直立せんばかりだったように思う。大きな声で答えた。
「ありがとうございます!」
今も、ライネケは、週二回ほど、庭でコーヒーの生豆を煎って、紙フィルターでドリップして、一日2,3杯ほど飲む。こうして自分で煎ったコーヒーを飲むようになって、50年近く経った。コーヒーについての思い出は、いろいろあって、さまざまの豆や淹れ方を試みてきた。実は、豆がなくなったりした時は、インスタントのコーヒーでも差し支えない。それで十分美味しいと思えることが多いのだ。
あの店で、赤シャツ氏と二人で飲んだ時のことを、今も時々思い出す。面白かったけど、あれは、一体どこのなんていう店だったのかしらん。
「赤シャツ氏」は、他の浪人生たちとの交わりはほとんどないようで、少し年上で、何だかぼんやりしていて、ちょっと浮世離れしたところのあるライネケに、他の若い秀才連とは違う何かを感じて、興味を惹かれたらしかった。実際のライネケは、見栄も何もかも捨てた受験態勢の一年間だったのだが、不思議なことに彼はライネケに親近感をいだいてくれたようなのだ。
3月終わりのある夜、彼と地下鉄に乗って、丸の内線のどこかで降りて、少し歩いたところの喫茶店に入った。どうやら有名なコーヒー専門店らしかった。「赤シャツ氏」は、ライネケが特段のコーヒー好きであることを知っていたようだ。
店に入ると、カウンターの向こうに、若い男が立っており、フロアーには、先客らしい中年の婦人がテーブルに向かってコーヒーのカップを前にして座っていた。我々は、少し離れた大型の丸テーブルに並んで座り、ブレンドコーヒーを注文した。
カウンターの向こうで、店の男がコーヒーをドリップし始めた。ガスの炎にかけた長く細い注ぎ口の付いたドリップポットの湯が沸騰すると、彼は、左手に持った柄付きのネルのフィルターの中に入ったコーヒーの粉に湯を注ぎ始めた。見ていると、左手に持つフィルターの上で右手のドリップポットを上下に動かして、念入りに注いでいくのだった。ずいぶんな時間の後、ようやく真っ黒な液が、カウンターに載せた小さな銅の容器の中に滴下し始めるのを、ライネケと赤シャツ氏は見ていた。
男が、二人のコーヒーカップを運んできてくれた。小さなカップの底には、いかにも濃厚そうな真っ黒の抽出液が入っていた。砂糖壺はどこだ。ミルクは? ライネケはテーブルの上を見回した。
その時、後ろから声が聞こえた。さっきの中年女性だ。
「あのう、ミルクをいただけませんか?」
男の答えに、ライネケは身をすくめた。
「お客さん、いきなりミルクなんか入れちゃっちゃあ、コーヒーの味が分かんなくなっちゃいますよ。」
その時の女性の反応がどうだったか、思い出せない、というより、聞いている余裕がなかったのだ。ライネケと赤シャツ氏の二人は、目を見合わせて、黙って、そのコーヒーを砂糖もミルクもないままに、すすっていた。
突然、和服の初老の女性が店に入ってきた。真っ直ぐに、カウンターの前を奥に向かって足早に通り過ぎながら、はっきりした声で言った。
「・・ちゃん、今朝のコーヒー、美味しかったわよ。」
カウンターの向こうの男は、ほとんど直立せんばかりだったように思う。大きな声で答えた。
「ありがとうございます!」
今も、ライネケは、週二回ほど、庭でコーヒーの生豆を煎って、紙フィルターでドリップして、一日2,3杯ほど飲む。こうして自分で煎ったコーヒーを飲むようになって、50年近く経った。コーヒーについての思い出は、いろいろあって、さまざまの豆や淹れ方を試みてきた。実は、豆がなくなったりした時は、インスタントのコーヒーでも差し支えない。それで十分美味しいと思えることが多いのだ。
あの店で、赤シャツ氏と二人で飲んだ時のことを、今も時々思い出す。面白かったけど、あれは、一体どこのなんていう店だったのかしらん。