自動車の車外温度計を見ていると、真昼に30分ほど、日陰に駐車した後、車にかえって車外温度計を見たら、摂氏40度になっており、走りだしてから38度になった。特に、松山市内は暑かった。松前はそれほどではなかったけど。
そんな中、お墓に行って、お迎えをした。
その前日には、そのためにご飯を炊いたり、いろいろ支度しなければならないらしいのだ。お迎えしたご先祖さまたちの霊にさしあげるお膳を「ご料具(ごりょうぐ)」というらしい。
ライネケの母親である道子お祖母さんが自分の心覚えのために書いたお盆のための支度表。
これを彼女が私たち後継者のために、わざわざ作ったとは思えない。何年前に書いたのかも分からない。文字を見ると、まだしっかりしている。今の彼女の字は、ずいぶん弱々しくなった。
昔の人々が、みなが皆、几帳面で用意周到であったわけではなかろう。それにしても彼女の万事にわたる記録、整理ぶりに、正反対の性格のライネケは辟易して育った。どうして、彼女のそういう部分が自分に伝わらなかったのかと、何度、情けなく思ったことだろう。特に試験の前なんかにはね。
米の炊くべき量なども細かく記録してある。
松山市育ちの彼女は、松前町に嫁いできて、地元の風に従うよう、ライネケの祖母に当たる七重さんから、きっとうるさく教えられたのであろう。
彼女は、以来、毎年毎年、8月13日には、指定通りにご飯を炊き、然るべきおかずを作り、14日には、お膳をお供えして、 15日にはそれらを下げたのであろう。
これがお料具のお膳なんだが、他に、
素麺やら豆やら油揚げやら、いろいろ、長い麻柄(おがら)にぶら下げて、お祭りする。
そして、午後、お膳を下げるとともに、ぶら下げた物たちも取りおろして、お墓にお参りするわけだ。
お墓では、お花と称する「樒(しきみ)」の水を足し、墓石に水をかけ、篤お祖父さんの湯呑みの水をとり換えて差し上げ、お墓の足元で、オガラを焼き、線香に火をつけ、お墓さんの線香立てに立てる。
一門亡魂、成等正覚、頓証菩提、過去聖霊、一仏浄土へ、 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・ |
「南無阿弥陀仏」を合計九回唱えるのだが、四回ずつ二度に分けて唱え、最後の一回はゆっくりと「南あ無う阿あ弥い陀仏つううう」という感じで唱えてお終い。これで、ご先祖さまたちの御霊は西方極楽浄土にお帰りあそばすはずだ。
これで終わりではない。最後の仕上げがある。
例の仏壇にオガラに吊るしていた素麺やら油揚げや、きざんだ茄子やらを持って、お墓の西の海辺に向かう。
お魚さんたち、 いらっしゃあい! とやっているのではないよ。 |
西の海に、先ほどのものを流してやる。海が汚れるんじゃないか、とちょっと心配になるが。
見ていると、本当に、魚がやって来て、食べようとした。 |
沖に向かって、流れ去っていくのを見送る。魚たちがやって来て、食べてくれれば、これも供養ということか。このあたりはチヌと言って、クロダイがよく釣れるんだ。
昔は、町には船大工たちがいて、小さなひな形の小舟を作り、それに、こうした供物を載せ、西海に流したそうだ。舟は一艘ではなくて、同じお盆の行事なので、墓参りを済ませた村人たちが集まって、何艘もの舟を、波打ち際から押し出す。それぞれの舟には点火したロウソクを立ててあり、暮れなずむ西の海に、たくさんの小舟が、ロウソクの明かりを輝かせながら、一斉に岸辺から遠ざかって行くさまは、一種の幻想的な壮観で、一見の価値があったそうな。
道子お祖母さんが嫁いできた頃の松前の町の風習だったという話だ。
「送り火」という言葉にふさわしい光景だったことだろう。
残念ながら、ライネケは見たことがない。
4 件のコメント:
<ネコパコ>
その時代、その地方、その家ごとにいろいろとお盆のお祭りも違うので、数年前に義母から任されたときは、実は「ここはわりと簡単じゃん」と思ったものですが、数年たってみると、何事も誠実に勤めるのは、やはりそれなりに大変だとつくづく思います
共同墓地なので、たくさんの他家の墓が並んでいますが、お盆の最中でも誰も来ている風ではない荒れた墓も増えてきました
親戚、縁者それぞれに忙しい時代です
さみしくともそれが現実、ま、なるようにしかなっていかないね
今年はお見送り土産のおはぎをライネケと作りました
これは新しい取り組みです
決まった方法なんて無いから実はどう祭ってもいいんじゃないかしらん
<ライネケ>
>決まった方法なんて無いから実はどう祭ってもいいんじゃないかしらん
そのとおりだね。
>何事も誠実に勤めるのは、やはりそれなりに大変だと
ご苦労さまでした。
ご先祖の皆さんも、喜んでいることだろう。
きっと、ロナは爪を研ぎ、ポチはぐるぐる走り回って、挨拶していることだろう。
わが家も姑から習ったわけではありませんが、13日にはお墓参りを県内3か所半日がかりでしてきて、夜には霊供膳(りょうぐぜん)をお供えし、迎え火を焚きます。
間の14日に何をするかは教わりませんでした。
15日には20年くらい前までは藁で編んだ舟にお供え物やお精進のお寿司をお弁当に詰めたりして乗せ、(もっと昔には本当に川に流したようですが)近くの広場にしつらえられた祭壇に置きに行っていました。祭壇の前にはろうそくをともし、お坊さんが控えて読経をしたりもしていました。今ではそれも無くなり、ゴミとして出すくらいになって残念ですが。
今年は祭壇の出し方、仕舞い方などを息子夫婦に伝授して一緒に出し入れしました。
伝える人によって少しずつ変化があるのは仕方のないことでしょうが、お盆の行事は(そのうち私も迎えてもらう霊の方になることでしょうが)伝えて行ってもらいたいものと思っています。
<ライネケ>
kurashiki-keikoさま、ありがとうございます。
ネコパコさんから、そちらさまのお盆行事が一大イベントであるということはうかがっておりました。
私達夫婦は、子供たちは皆、遠くにいて、たった二人で、できるだけのことはしますが、その後のことは、なるようになるだろう、という気持ちです。私たちのやっていたことを、たまに横で見ていて、いつの日か、思い出して、水でも供えてくれるかもしれんな、という程度のことです。私にとっては、生まれ育って、高等学校まで暮らした土地ですから、故郷と言えるかもしれませんが、子供たちにとっては、異国なのだろうと思っています。遠くから、この地に嫁いできた形になるネコパコさんは、どんな気持ちなのでしょうか。
家族、一族、血縁、地縁、地域、故郷、故国、そのようなものが、体と心の中に、鋳込まれたように脈打つように思われる時代は、過ぎ去りつつあるのかもしれませんが、古い墓石を撫でていると、ふと、遠い昔に自分が繋がっているような気がします。
最初に、底に砂のたまった父の湯呑みをバケツから組んだ水で洗ってやり、きれいな水を注いで、眼を閉じて、手を合わせて、父に近況報告します。4年前だか、私たちのもとを去って逝ったロナにも声を掛けてやります。彼らが皆、この宇宙に、満遍なく、あまねく溶け込むように存在しているような、不思議な気持ちになります。
こういうことが、年に一回くらいあってもいいでしょう。
今年のお盆も無事終わりました。
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