一緒に来た家族と離れて、ひとり、知らない街をさまよった。
大きな門構えの建物が見える。
「国立臺灣師範大学」
構内に入ってみると、カフェテリアみたいなのがあった。
台湾人だけでなく、外国人らしき人もたくさんいて、軽食を食べたり、コーラを飲んだりしていた。
セルフタイマーで自分の写真を撮る。
おいらも年とったもんだ。
この大学は戦前の旧制台北高等学校なのだそうだ。由緒のある学校にふさわしく、立派な構内だった。
大学の裏門を抜けて、また、通りに出た。
随分歩いた。
見上げると、緑の葉の中に赤紫の花が鮮やかに咲いていた。
通りの何かの建物の窓ガラスに、通り過ぎる自分が映っている。
さっき、花を見上げていたおいらが、おいらを見ている。
映っている自分。
見ている自分。
今、歩いている自分。
あの時、歩いていた自分。
かつて歩いた場所。
今歩いている場所。
場所は連続的に移動していくものなのか。
時は次々に過ぎゆくものなのか。
自分はそれらと共に変わっていくものなのか。
同じ自分が、時と場所と共に動いているのか。
時と場所が変われば、自分は変わるのか。
それとも、時も場所も自分も、はじめから、あるのか、何も無いのか。
時と場所とは別物で、別々に、あるいは同時に推移しているのか。
それとも、時も場所も同じものの違う呼び名なのか。
時と場所とが一体のものならば、自分というものもその中の構成物なのか。
今もあの時も同時であり、あの自分もこの自分も同一時の同一物なのだろうか。
おい、そんなに、自分自分と言うなよ。そもそも、いまだかつて自分なんてあったのだろうか。あるのだろうか。
台北のバス乗り場で空港行きのバスに乗り込んだ。バスの窓ガラスと待合の扉ガラスを隔てて、見送ってくれるChicaとGama君。
世話になった。ありがとう。
1 件のコメント:
確かなのは、
今この瞬間から、後ろには戻れずに
時間は経過するのみということですね。
その時、
自己は変化しているのか、していないのか。
形質変化とは全く違う何かの変化は
果たして何時起こるのか。
自分が変わったつもりでも
全く変わっていなかった事を目の当たりにして
愕然とすることもある。
自分との旅が一番長い。
と、いつも旅の終わりに思います。
chica
コメントを投稿