この景色を覚えているだろうか。
子ども達が、本当にまだ子ども達だった頃、休みになれば、土曜日午後、仕事が終わって帰宅して、準備も何もあらばこそで、全員招集をかけ、シュラフやらテントやらの荷物を、エイヤアッと車に放りこんで、荷物室に1人、後席に3人が揃って乗ったら、出発。その夜暗くなって、鳴門、徳島、室戸を経て、高知市内を抜け、横浪黒潮ラインの途中にある国民宿舎にたどり着いて、一泊。翌日は、いい加減に詰め込んだ荷物を車の上の簀の子の上に載せ替えて、足摺岬を目指したものだ。足摺岬の手前に、国道脇に小さな売店があって、その横の坂をひょっと下ると、
テントやシュラフをみんなで運んで渡った懐かしい板の橋。
橋の上から海を見ると、インディアンの砦が見える。
いつだったか、冬のある日、浜でテントを準備していたら、ちっぽけな軽四輪に乗った白人の夫婦が降りてきて、ご主人はコートを岩の上に敷いて横になり、奥さんはずうっと波打ち際を歩いて、端っこまで行き、やがて、サンダルを手にぶら下げて帰ってきたっけ。そして、また車に乗って去っていった。自然との付き合い方が大人だと感心したっけ。
橋の向こうには、私たちだけの砂浜があった。夏への扉だった。
30年前は、誰もこんな地の果てみたいなところには来なかったから。
その頃の浜は、長い堤防と背後の防風林に隔てられて、国道から隠れる形で、施設らしきものはほとんどなかった。今は、トイレとシャワー設備があり、サーファー達がたくさんやってきて、車中泊で遊んでいく。
時が流れ、全てが変わる。
実は、大岐に行く前に、土佐清水の町の食堂で、数年前食べてえらくおいしかった記憶のある「サバの刺身定食」というのを食べに行った。
ネコパコは「サバのたたき定食」を食べた。
どちらも1300円。10年ほど前の記憶では、700円くらいだったと思う。
昔食べたときは、油の乗ったハマチみたいな味で、これがサバか?と感激したものだったが、今回は、新鮮ではあったが、それほど感激しなかった。冬だったらよかったのかも知れない。変わらないものはないからね。
その後、今は四万十市と呼ばれる中村市に寄った。
中村市の山裾にある四万十川学遊館に寄ってみた。
「トンボ公園」といったほうが分かりやすいかな。
今は捕ってもいいみたいだが、昔は「当園内では虫取り禁止」と看板がかかっているのに、振り返ると、うちの子供達が、馬鹿長い、真っ白の捕虫網をなびかせて走り回っているので、困惑した記憶がある。
それにしても、いろいろなことがあったっけ。
また片道180キロの道のりを、二人は途中松野のぽっぽ温泉に入ったり、内子の中華料理屋で夕食をとったりして、帰ったのだった。
野良狐のライネケと極楽とんぼのネコパコの二人道中は、これからいつまで続くのだろうね。
世の中を
何にたとへん
朝びらき
漕ぎ往にし舟の
跡無きがごと
万葉集 沙弥満誓
4 件のコメント:
今、仕事から帰るところです。
How green that was...
我が野は緑なりき、
少年時代への限り無い郷愁と失われた故郷の追憶を感じるようになりました。
がま
<ライネケ>
sornekoさん、元気か?
子供時代が遠くなったね。
インディアンの砦。
口にするだけで、波の音が聞こえる気がします。
延々と海辺を歩くのを楽しみの一つと捉えるようになったのは
この浜があったからだなあ。
chicaco
<ライネケ>
Chicaさん、元気にしてますか?
シンガポールのみやげ話が聞けるのを楽しみにしています。
大岐は、何度行ったか分からないくらい、行きました。
とくに真冬がよかった。
夏は暑くて、テントは大変でしたから。おまけに大抵は雨風の日が多くてつらかった。
ある夏は、夜中に大雨が降って、モスのテントの床が浮かんで大騒ぎになったりした。
足摺岬が西南方向に伸びて、波打ち際に沿って、波のしぶきと霧に霞んで見えるあたりまで、夕ごはんの前、皆でずっと歩いて帰った。途中で貝殻を拾ったりした。
寄せては泡立つ潮が足跡を洗い、また消えて行った。
私が気に入ったというだけの理由で、同じ場所にいつも同じ形式で、有無をいわさず、飛び出して、泊まりに行った。
皆誰も文句言わず、付き合ってくれた。
感謝しています。
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