2008年12月2日火曜日

ライネケの妙なこだわり

ライネケ院長は、時々、妙に言葉についてこだわる癖があってね。
Wystan Hugh Auden(ウィスタン ヒュー オーデン) 1907年2月21日生まれ、父親は医師、アングロカトリック一家、1925年に、奨学金をもらってOxford大学のクライスト・チャーチに入って、英語を専攻したって言うんだから、パブリックスクールでラテン語も古典ギリシャ語もいやという程やってるはずだな。


さて、Chicaさんの引用したオーデンの詩なんだけど。

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みよ 見知らぬ人よ いまこの島で
躍る光に君の喜びを見いだしたまえ。
ここに動かず
もの言わず、立ちたまえ。
海の揺れるひびきが
耳の海峡を通りぬけて
川のごとくさすらっていくように。

(中略)

すべての光景が
きっと君の眼にうつり、
君の記憶の中を移りゆく時があるでしょう。

「みよ 見知らぬ人よ」W.H.オーデン 抜粋

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っていう詩だね。


島」「光」「立つ」「海」「海峡」「記憶」「見知らぬ」という言葉の連想から、更に、多島海、光豊かな孤島の斜面、懐古、呼びかけ、を思い起こし、そしたら、例の「ぎりしあ詞華集抄」” Anthologia Graeca” の


行く人よ、

ラケダイモンの國びとに

ゆき伝えてよ、


この里に

御身らが 言のまにまに

われら死にきと。

--「テルモピュライなるスパルタ人の墓銘に」シモーニデース


あるいはまた、


これはその昔、アイガイアの波の重いとどろきを棄てて、

エクバタネーの曠野のさなかにねむるわれら。

さらば、世に聞こえたかつての祖国エレトリア、さらばよ、エウボイアの

隣人なるアテーナイ、なつかしい海よ、さらば。

「ペルシアの奥地に虜われて住むエレトリア人を」プラトーン


を思い起こしても不思議じゃないでしょう?

こういうのは、一昔前の教育を受けた欧米の知識人達にとっては、日本人にとっての、万葉集みたいなものだから、彼らは常にそういう連想の中で創作活動をしているんじゃないかと思うのだ。私たちが、春になって、新緑が吹き出してくるのを目にしたら、「石走る垂水の上のさわらび萌え出づる春になりにけるかも」を思い浮かべたり、新幹線の窓から、珍しく富士山が見られたりした時、「 田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ富士の高嶺に 雪は降りける」とか教科書で習った歌を思い起こすのと同じだろう。

ちなみに、これらの引用は、呉茂一の訳詩集である「花冠」から。彼の著作には他に、岩波文庫から「ギリシア叙情詩選」があり、これも素晴らしい。これらを継ぐものとして、沓掛良彦の「ピエリアの薔薇」があり、これもなかなかのものだ。余裕があれば、一度、目を通しておくべきものだと思うよ。サッポーとかアルカイオス、シモーニデースやアナクレオンが生きた時代から2000年以上も後の、西洋文化とは縁もゆかりもない筈の極東の日本において、このような文学の香り高い訳詩選集が編まれたということで、日本人の文化に誇りを感じるよ。

こういう連想は、背景になる貯蓄量が大きい程豊かになるわけだから、少年少女時代になるべく沢山色々な名文を読んでいる人程、考えて作文したり、発言したりする場合はもちろん、何気ない一言であっても、ひょっとしたら、この人は何かふまえてるんじゃないか?と思わせる含蓄を持つだろうし、相手にも、その言葉の背景が共有されている場合は、お互いに響きあって、連想が連想を呼んで、ますます言葉のプリズムとなって、複雑な光を放って、豊かな表現力となって現れるだろう。

「ええっと」とか、「あの〜」とか、馬鹿みたいに、「ていうか〜」とか、「みたいな〜」とか、「だし〜」とか、「超うめ〜」とか、そんな無教養人間の口癖みたいな言葉しかしゃべれない人間にならないよう、諸君、気をつけてくれたまえ。

ラテン語などヨーロッパ古典語については、水野有庸という、ライネケ院長にとって青春のモニュメントみたいな人の思い出があるので、また機会を見て話そう。

6 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

<ネコパコ>
たぶんchikaはこういう展開を一番警戒していたのではっていうか〜あの人的には言葉の流れのイメージだけでいろいろ蒐集してるだけだし〜

いえいえ、ライネケが願う方向もやっぱわからんわけではないんだけど、なんていうかさ〜あっち向けホイって感じがいっぱいじゃん

それにしても花冠どこからでて来たのかな…
あたいの本だよな、確か
なんか若い頃読んだ本がどんどん遠くになって行くなあ

先週東京でみたオペラ「オテッロ」の舞台はベネチアの海と空だけが表現された空間でちょっと不思議で素敵だった
これがイタリア的青か?というわけで
本よんで、いろいろ勉強もいいけれど、現実体験もいろいろ豊かもちょっと グ〜 かな

それにしても、ええっと、あのさ、最近すんごい量とスピードで更新してない?
なんか、本業ぶっとびみたいな〜

匿名 さんのコメント...

<ライネケ>
それは、どうも申し訳ありませんでした。いわゆる「空気読めない」ということですね。そうだったら、Chicaさん、ごめんなさい。

いや、諸君、私の云う事など別に気にせずに、好きなようにしゃべったり書いたりして下さい。私は自分が大切だと思う基準で行きたいと思っているだけで、他人がどうしゃべろうが、生きようが、あれこれ申しません。

更新ということについては、折角、作ったブログなんだから、ちゃんと更新しなさい、と言われたように思ったので、更新しているのだが、盛んに更新していると言ったって、毎日更新してるわけでもないし、そう言われるとちょっと悲しい気はします。よそ目にはそういう風に見えるのか、と初めて思いました。なるほどね。

「花冠」は私も買ったんだが、今どういうわけか私自身の買ったのは手元にない。岩波文庫もどこかにある筈だが、分からない。たまたま探していたら、書棚にあったので、勝手に見て申し訳ない。お手元にお止め置き下さい。

匿名 さんのコメント...

<ネコパコ>
がうっ!(「ちがう!」のharuno2才言語)

匿名 さんのコメント...

最近「海底2万里」(J.V)の映画を初めて観ました。(暇?ないない。)
「それが文明人のやることですかネモ船長!」
「私は文明人ではない!私は地上の世界に依存せずに生きてゆくことに決めたのだ!」
(一同返す言葉なし。唖然)
人にはそれぞれが生きてきた背景によって第一義とする感じ方、考え方があり、それに従って今後も生きてゆくしかないようです。
それをして信条とよぶのだと思いますが、時には”頑固”とかなんとか言われます。
でもそれこそが人の個性を分かつ鍵であるはずですから、大事にしたいところです。
ただし、乗り組み員が海の底まで着いてゆく覚悟がある場合、ネモ船長も浮かばれるのですが、大半の人ははネッドであることに注意は必要です。
「俺は死にたくない!」
             ガマ(冷凍)

匿名 さんのコメント...

<ライネケ>
院長がむか〜し見た「海底二万マイル」は、確か、ネッドの役をカークダグラスがやっていたと思うよ。そして、ネモ船長が作り上げたノーチラス号は、鋼鉄製で、ギザギザの付いた流線型をしており、その映画のノーチラス号の出てくる本もあって、あの母屋で大事にして見ていた記憶がある。
「ネモ」って言うのは、ラテン語でnobodyという意味で、争いばかりしている世界に絶望して、現代文明と決別し、当時の人間社会から縁を切って、海中で暮らすネモ船長の決意を表すわけだ。彼は彼流の文明人なんだよ。
「ノーチラスNautillus」はウィンドノートWindNautの一部であるNauta(船乗りー男性名詞)の縮小形というやつだ。例のアオイガイ(カイダコ)はArgonauta argoという。軽い不思議な形の殻を持った貝ダコは、潮に浮かんで数千キロを旅して海を渡る。その名は、かのイアソンに率いられた男たちがArgo号という舟に乗って、黄金の毛を持った羊を捕まえに行く、という、ホメーロスに歌われて有名なArgonautae(アルゴ号に乗った男たち)から来たものだ。ロマンチックだねえ。
Windnautsはさしずめ「風に乗った男たち」ということになるのかな。

匿名 さんのコメント...

なんだか、色々皆さんお考えがあるらしいんですが、
その発端になった、わたくしめは
浅~い人間であるからして、
なんも!ない!よ!
ほんと、な~んも、ないよ!
兎の如き小さい脳みそしか持ち合わせておらぬゆえ、
読んだものの大半を覚えていられないのじゃ。
だから、帳面につけとくんですね。
ああ、これは好きだなっていうのを
学生の時分は詩一編のために本一冊買うのは無理だったので、書き留めて置く。
それだけなんです。
花冠も読んだけど忘れた。
万葉集も詠んだけど忘れた。
リルケもワーズワースもホイットマンも
読んだけど、読んだけど忘れた。
それでも
自分が好きだと思えるものが幾つかあって
時々口ずさめたら
幸せだと思うのです。
それだけ。
こんなんで、ごめんなさい。
御希望にそえられないのは申し訳なさでいっぱいですが、
私の幸せの糸口を与えてもらったことには感謝しています。
もう一度、読み直してみようかな。
あの時は理解出来なかった詩が
今度は理解出来そうです。
          chica