2008年12月11日木曜日
おそくなったけど、誕生日おめでとう-3 <ライネケ院長>
2008年12月2日火曜日
ライネケの妙なこだわり
さて、Chicaさんの引用したオーデンの詩なんだけど。
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みよ 見知らぬ人よ いまこの島で
躍る光に君の喜びを見いだしたまえ。
ここに動かず
もの言わず、立ちたまえ。
海の揺れるひびきが
耳の海峡を通りぬけて
川のごとくさすらっていくように。
(中略)
すべての光景が
きっと君の眼にうつり、
君の記憶の中を移りゆく時があるでしょう。
「みよ 見知らぬ人よ」W.H.オーデン 抜粋
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っていう詩だね。
「島」「光」「立つ」「海」「海峡」「記憶」「見知らぬ」という言葉の連想から、更に、多島海、光豊かな孤島の斜面、懐古、呼びかけ、を思い起こし、そしたら、例の「ぎりしあ詞華集抄」” Anthologia Graeca” の
行く人よ、
ラケダイモンの國びとに
ゆき伝えてよ、
この里に
御身らが 言のまにまに
われら死にきと。
--「テルモピュライなるスパルタ人の墓銘に」シモーニデース
あるいはまた、
これはその昔、アイガイアの波の重いとどろきを棄てて、
エクバタネーの曠野のさなかにねむるわれら。
さらば、世に聞こえたかつての祖国エレトリア、さらばよ、エウボイアの
隣人なるアテーナイ、なつかしい海よ、さらば。
「ペルシアの奥地に虜われて住むエレトリア人を」プラトーン
を思い起こしても不思議じゃないでしょう?
こういうのは、一昔前の教育を受けた欧米の知識人達にとっては、日本人にとっての、万葉集みたいなものだから、彼らは常にそういう連想の中で創作活動をしているんじゃないかと思うのだ。私たちが、春になって、新緑が吹き出してくるのを目にしたら、「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」を思い浮かべたり、新幹線の窓から、珍しく富士山が見られたりした時、「 田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ富士の高嶺に 雪は降りける」とか教科書で習った歌を思い起こすのと同じだろう。
ちなみに、これらの引用は、呉茂一の訳詩集である「花冠」から。彼の著作には他に、岩波文庫から「ギリシア叙情詩選」があり、これも素晴らしい。これらを継ぐものとして、沓掛良彦の「ピエリアの薔薇」があり、これもなかなかのものだ。余裕があれば、一度、目を通しておくべきものだと思うよ。サッポーとかアルカイオス、シモーニデースやアナクレオンが生きた時代から2000年以上も後の、西洋文化とは縁もゆかりもない筈の極東の日本において、このような文学の香り高い訳詩選集が編まれたということで、日本人の文化に誇りを感じるよ。
こういう連想は、背景になる貯蓄量が大きい程豊かになるわけだから、少年少女時代になるべく沢山色々な名文を読んでいる人程、考えて作文したり、発言したりする場合はもちろん、何気ない一言であっても、ひょっとしたら、この人は何かふまえてるんじゃないか?と思わせる含蓄を持つだろうし、相手にも、その言葉の背景が共有されている場合は、お互いに響きあって、連想が連想を呼んで、ますます言葉のプリズムとなって、複雑な光を放って、豊かな表現力となって現れるだろう。
「ええっと」とか、「あの〜」とか、馬鹿みたいに、「ていうか〜」とか、「みたいな〜」とか、「だし〜」とか、「超うめ〜」とか、そんな無教養人間の口癖みたいな言葉しかしゃべれない人間にならないよう、諸君、気をつけてくれたまえ。
ラテン語などヨーロッパ古典語については、水野有庸という、ライネケ院長にとって青春のモニュメントみたいな人の思い出があるので、また機会を見て話そう。