春になった。
Chicaが植えてくれた草に白い花が咲いた。
しばらく前までは、白いものを見るたびに、ロナのことを思った。
3月5日はロナの命日だ。
未練がましいようだが、彼に関連するものだと思うと、捨てきれない。今はゴロが屋上に出るのに使っている。
ふと窓から外を見下ろすと、草花の間を身を低くして歩いている彼の姿が見えることがあった。
ロナは、自由と気ままの象徴のように思えた。
ロナの後任のゴロは、動物愛護センターとの約束で、内飼いされることになった。彼も屋上によく出るのだが、幸いというべきか、この段差を飛び降りて、外界に出ていくという様子はない。それでも、屋上で、春の日差しと土と草に触れられるゴロは、世間並みの完全内飼いの「ネコちゃん」よりは、幸せなんじゃないかと思う。
屋上の射場の安土の斜面に、ロナが駆け上がった跡がまだ残っている。
深く残った彼の足跡に、今も爪の形を認めることが出来る。安土に水をやるたびに、この足跡に水を掛けるのをためらう。もう数年経つと、この足跡も消えてしまうのだろうか。
足跡というのは、土側に残った土の表面のことなのか、土の凹凸に入った空気側なのか、あるいは、その境界のことなのか? 土が崩れ落ちて凸凹がなくなれば、足跡は消滅するものなのか。それとも、それを見て、何かを思った人の心の中に残る何かのことなのか?記憶というものも一種の「もの」なのか? いや、これを見て、あれこれと想いめぐらすということそのものも、足跡そのものなのかもしれない。
今の私には、木の床に残った彼の爪あとも、安土に刻まれた彼の足あとも、単なる彼のあとかた、あるいは記憶であるというより、彼そのものと思える。「ロナ」というものに起因するすべてのもの、今は聞くことのない彼の鳴き声や見ることのできない彼の眼の色、彼の身ごなしを思い起こし、次々にさまざまの思いが連鎖して生じる。そうした「もの」だけでなく、形のない「反応」「情感」も含めて、すべてが「ロナ」であり、「私」であり、「世界」そのものなのかもしれない。
夕暮れ時の西の空の色が移り変わり、煙が消えていき、やがて濃い青の空に月が出る。
ある集まりの挨拶で、「当家の屋上から西の海の夕暮れの空を見ていると、本当に美しくて、人生の美しさ、はかなさを感じます。」と大真面目で言ったら、会場のあちこちから笑いが起こったのには驚いた。大げさに聞こえたのかな? 「美しい」という言葉を無邪気に口にした私は、少し傷ついたよ。一度、見てみるといい。
こんなに美しいのに。
明日は見られなくなるかもしれないのに。
人生如夢 人生は夢のごとし
一樽還酹江月 一樽また江月に酹(そそ)がん
Chicaが植えてくれた草に白い花が咲いた。
横にはチューリップの葉が伸びてきている。 |
屋上にも 小さな白い花が |
といって、別に何をするわけでもない。きちんと揃えた前足に長い尾を巻きつけるようにして、三角形の目で、傲然と端座している彼の姿を思い起こすだけだ。
彼は、いわゆる内飼いではなく、外出自由だったから、気が向いた時に、当然のように、我々に玄関のドアを開けさせ、我々がいなくても、屋上の扉に付いていたくぐり戸を抜けて、屋上に出ることが出来た。彼がまだ手のひらサイズで目も開かず、自力でミルクも飲めなかった時から育てたというのに、私たちは彼の親というより、ドアマンであったり、給仕係みたいだった。
設置して12年目になる。 風にあおられて、何度も外れて飛んだ。 そのたびに、接着剤で補修して、まだ、使っている。 |
屋上西南側から、 お隣さんの屋根瓦が見下ろせる。 |
結構な段差なんだが、 ロナは、一躍、身を翻して、 外の世界に出て行った。 |
ロナの後任のゴロは、動物愛護センターとの約束で、内飼いされることになった。彼も屋上によく出るのだが、幸いというべきか、この段差を飛び降りて、外界に出ていくという様子はない。それでも、屋上で、春の日差しと土と草に触れられるゴロは、世間並みの完全内飼いの「ネコちゃん」よりは、幸せなんじゃないかと思う。
ロナが去って5年たった今もしばしば考えてしまう。彼は私にとって、一体、何だったんだろうか。「自然」の一部だったのか? 「神」の伝言者だったのか? 彼が、私たちと共に、人生の十年余りを過ごしてくれたことで、何かが示されたような気がする。
屋上の射場の安土の斜面に、ロナが駆け上がった跡がまだ残っている。
爪の形が分かる。
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足跡というのは、土側に残った土の表面のことなのか、土の凹凸に入った空気側なのか、あるいは、その境界のことなのか? 土が崩れ落ちて凸凹がなくなれば、足跡は消滅するものなのか。それとも、それを見て、何かを思った人の心の中に残る何かのことなのか?記憶というものも一種の「もの」なのか? いや、これを見て、あれこれと想いめぐらすということそのものも、足跡そのものなのかもしれない。
今の私には、木の床に残った彼の爪あとも、安土に刻まれた彼の足あとも、単なる彼のあとかた、あるいは記憶であるというより、彼そのものと思える。「ロナ」というものに起因するすべてのもの、今は聞くことのない彼の鳴き声や見ることのできない彼の眼の色、彼の身ごなしを思い起こし、次々にさまざまの思いが連鎖して生じる。そうした「もの」だけでなく、形のない「反応」「情感」も含めて、すべてが「ロナ」であり、「私」であり、「世界」そのものなのかもしれない。
ある集まりの挨拶で、「当家の屋上から西の海の夕暮れの空を見ていると、本当に美しくて、人生の美しさ、はかなさを感じます。」と大真面目で言ったら、会場のあちこちから笑いが起こったのには驚いた。大げさに聞こえたのかな? 「美しい」という言葉を無邪気に口にした私は、少し傷ついたよ。一度、見てみるといい。
こんなに美しいのに。
明日は見られなくなるかもしれないのに。
人生如夢 人生は夢のごとし
一樽還酹江月 一樽また江月に酹(そそ)がん
4 件のコメント:
贈裴迪
不相見 相見ず
不相見来久 相見ざりしより来久し
日日泉水頭 日日泉水の頭
常憶同携手 常に憶う 同に手を携えしを
携手本同心 手を携えて本同心なるに
復歎忽分衿 復た忽ち衿を分かつを歎く
相憶今如此 相憶うこと 今此の如し
相思深不深 相思うこと 深きや深からずや
春は胸に沁みる季節ですね。
Chica
<ライネケ>
私の知らない詩だ。王維なのだね。インターネットのおかげで、なんでも調べられるようになったのは便利だ。
同じ字句が重なって使われてますね。おそらく、中国語で読むと、リズミカルな効果が面白いのだろうと思います。
「思」も「憶」も、どちらも「おもう」という日本語に読むわけですが、「おもう」と読む字としては、「想う」「思う」「懷う」「憶う」などいろいろ当てることができます。このあたりが、言語の違いで、完全に翻訳することはできません。かと言って、私たち日本人が、中国音を習って、この詩を中国語として発音して読むと、音楽的な響きの面白さはある程度分かると思うけど、幼少時から体に入った中国語ではないので、結局、本当に中国語で聴き、理解することにはなりません。字面から連想した意味合いで理解するだけで、結局漢文を介して理解することになるでしょう。つまり、日本語の「おもう」と中国語の「思」とは、ある程度の重なりはあるけれど、根本的には違うということです。
それこそ、「相思うこと 深きや深からずや」だね。
春ですなあ。。。
がま
<ライネケ>
がま君の春はまだかいな?
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