2015年7月25日土曜日

末っ子くんもいよいよ  <ライネケ院長>

我が家の末っ子だったShigeが久しぶりに帰ってきた。彼と会ったのは、彼がギャップイヤーを利用して欧州旅行に行って、帰国してきた時だから、およそ1年3ヶ月ぶりだ。

聞けば、彼はもう、同級生より、ひと足お先に就職先が内定したのだというのだ。

それはめでたい、というので、日曜日の夜は道後の大黒屋で、鯛の釜飯とエビの天ぷら、うどんの夕食を食べ、道後温泉に浸かり、月曜日は、瀬戸大橋で彼が生まれて少年時代を過ごした倉敷の町にあそびに行った。帰りは、今治のクイーンベルで洋食の夕食をとり、彼の門出を祝った。

今朝、彼が、浜のお墓の掃除をしてくれたというので、また、二人でお墓に行き、墓石に水をかけ、線香を焚いて、伊予じいちゃんたちに、彼の就職内定の報告をした。

墓の台の上に上がって、御先祖様たちに水をかける。
ご先祖の皆さん、聞いてください。
朝、掃除をしてくれたのは、末っ子のShigeちゃんです。
なかなか誠実な子じゃありませんか。

考えてみれば、遥か遠くにいるShigeくんに、おいらは何もしてやれなかった。私自身は、地元の中高一貫の進学校から、あまり悩むようなこともなく、お定まりの受験コースを歩んだので、Shigeくんの進路にあった数々の困難については、具体的な相談に乗ってやれるような経験も何もなかった。それは、彼の今後についても同じだと思う。

彼がはじめて上京した頃は、我が家はまだ倉敷にあって、上京する彼を岡山駅の新幹線乗り場まで送って行き、乗りそびれそうになる彼を車室に入れて、私一人で見送ったときや(あの時、ネコパコは自分は送り出せそうにないから、私一人で見送ってやってくれと、頼まれたのだった。)、自由学園入学後、夏休みに帰省して、また上京するとき、夜の松山駅で、夜間高速バスに乗り込む彼の目に涙を見て、どうしたらいいのか、途方にくれた。

初めての体操会のあと、ひばりが丘の駅まで追ってきた彼を残して、愛媛に引き上げたときのことは、一生忘れないだろう。あんなこと、こんなこと、思いおこせばきりがないが、私も年とってきたらしく、あんなに悩んだことも、往時茫々として、ぼんやりしてきたようだ。なんと言っても、10年という月日が経ったのだ。

午前中、おいらが外来をやってる間に、
Shige君が草引きしてくれたおかげで
午後、お墓参りが出来た。
線香に火をつけ、
近くの草むらからむしってきた月見草の花を墓前に手向けた。

多分、私たちに限らず、親というのは、いずれの家庭でも、この程度のものなのだろう。いや、むしろ、私こそ、運良く苦労知らずの気まま人生を送ってきた子どもみたいなものなので、どこかしら、修羅場を切り抜けてきたようにさえ見えるShigeくんと並ぶと、引け目を感じるくらいなのだ。私に立派な父親らしいものを期待しないで欲しい。

彼には、自分のやりたい事、進みたい方向がある程度あるようで、そのための第一歩として、小さいけれど、まともな、ある企業に応募して、きちんと面接を受けて、採用されたらしい。そして、そこで、ある程度のスキルを身につけたあと、さらに、次のステップを考える、という気持ちのようだ。

就職予定の会社について、あるいは、彼のビジョンみたいなものについて、あまり根掘り葉掘り聞くことはしなかった。所詮、自分で決めることなのだから。お墓の前に私と並んだ彼は、数カ月前の彼に比べて、随分しっかり見えて、そんな彼に対して、心から、おめでとう、と言い、お墓の伊予じいちゃんたちに向かって、我が家の末っ子もとうとう独り立ちしそうですと、報告したのだった。

30数年前、若い二人で、ささやかにスタートした我が家だったが、火にかけた水が、いつの間にか沸いてきて、吹きこぼれんばかりに賑やかになり、そのうち、一人二人と巣立って行き、再び、老いた二人の静かな生活に戻っていくのだ。今は、飛び立った子ども達の未来に幸いあれと願うばかりだ。



そうだった。まだ、ゴロがいたのだった。いつまでも、どこまでも一緒に生きていきたい。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

親子写真、良い写真ですね。
末っ子君、就職内定おめでとう。
あと1カ月で誕生日ですね。
これからを楽しんでください。
chica