2013年12月26日木曜日

古き良き時代の暖かさ  <ライネケ院長>

寒くなった。
現代人は、外の寒気や北風と遮断されたエアコンの利いた部屋の中で、ぬくぬくと暮らすようになった。でも、少なくともライネケの学生時代は、今の暮らしから見れば、ずいぶん不便なものだった。ほんの40年前までの話だ。ここ、十数年の間に、急速に日本の日常生活は変わってきた。




京都時代、ライネケがネコパコと一緒に暮らし始めた頃、冬の京都の底冷えに耐えかねて、大学の北門ちかくの店で買ったのが、米国製のパーフェクションで、これは、ガラスのホヤの中でオレンジ色に燃える芯が周囲を照らしてくれるもので、オールドアメリカン風というか、つましく暮らす若いふたりを、冬ごとにずっと守ってくれた。ガラスのホヤが割れたけど、オークションで探して、30年以上たった今も、まだ生きている。




焚き火が好きなライネケが次に見つけたのが、日本船燈(ニッセン)社のゴールドフレームという、やはりガラスのホヤの真鍮製の灯油ストーブだ。松山のヴァルボラで、タンクに亀裂の入ったのを安く買って、自分でハンダで亀裂をふさいで直した。やはりオレンジ色の炎が暖かいランプのようなストーブで気に入っている。


こんなのもあって、神戸の某旧家の洋館にあったもので、イギリスValor バーラー社製のストーブだ。


二筒式で、細身の円筒の中で小さな青い炎が、静かにつつましく燃える。いかにもイギリスのお育ちの良い家庭を温めてくれるっていう感じだ。ちゃんと耐震装置も付いている。ただし、あつかいは少々面倒だ。




ライネケの父親である伊予爺ちゃんは、英アラジン社のブルーフレームヒーターという灯油ストーブが大好きで、ライネケが小学生の頃から、広い我が家のあらゆる部屋に薄緑色あるいはクリーム色のホウロウ引きのアラジンがあった。ライネケが8年前、愛媛に帰ってきて、比較的小ましに見えたアラジンを3台ほど残して、古くて使えそうにないアラジンを4台前後は処分したと思う。

手元に残したうちの一台は、倉敷のKさんのうちにあったアラジンで、これは現役に近くて、すぐ使うことができたので、Haruno夫妻のうちに引き取られていって、今日も二人を温めてくれていることだろう。

さて、今年の冬、寮を引き払って、初めて自分の根城を持つことになった東京のShigeが、あれではさぞかし寒かろう、というので、残っているアラジンのうち、一台を送ってやろうと思ったわけだ。



それで、ライネケとネコパコが愛媛に帰ってきて以来、8年間、ずっと母屋で眠っていたアラジン2台を引っ張り出してみた。比較的ましと思った二台だったが、すでに、どちらも、埃と錆とタンクの中に残って変質した灯油とひび割れたホウロウとで、見るも無残な姿だった。それでも、ネットで替芯を取り寄せて、再生することにした。


一時は諦めそうになったが、とにかく、随分苦心惨憺の結果、二台とも、きちんと現役復帰した。ブルーフレームヒーターというだけあって、きれいに青い炎がもえて、大分くたびれてはいるが、上品な佇まいに心がなごむ。


やかんを載せてやると、意外に早く湯が沸くのはうれしいね。
今、Shigeの住まいで、好調に燃えているかしらん。どうかな。

1970年くらいまでのアラジンには、耐震消火装置は付いていない上、着火もいちいち燃焼筒を傾けて、マッチで点火してやらなければならない。おまけに、ちゃんと青い火が均等に燃えるように、常に調節整備する手間がいる。そのための鉄製の芯切りもちゃんとある。まだ純正の替芯も手に入る。

彼らが、静かに、優しく燃えるのを見ていると、古き良き時代の名残を見ているような気がする。大切にしてやりたいね。

2013年12月5日木曜日

ライネケの新しいおもちゃ <ライネケ院長>

またもや、夢見るライネケに魔がさしてしまった。

10月末のある雨の日の夕方、ライネケは建築士のHさんから軽トラックを借りて、ネコパコさんと一緒に、高浜近くにある松山デポに、あるものを引き取りに行った。




ホンダ スーパーカブ C65 1965年製?
ひさびさに当家の新入りだ。これは、嫁入り道具として付いてきた、当時物のパーツリストとサービスマニュアル、取扱説明書だ。




ホンダのスーパーカブは、今も進化しつつ生産され、世界中で活躍し、2008年4月末時点でシリーズ総生産数6000万台に達して、輸送機器の一シリーズとしては、世界最多量産、販売台数を記録し、20世紀後半のモータリゼーション史上、四輪自動車のT型フォードやフォルクスワーゲンタイプ1(いわゆるカブトムシ)と並ぶ貢献をしてきたそうだ。(ウィキペディアによる)

スーパーカブは1958年にOHV50cc(スーパーカブC100)として生産が始まり、さまざまの派生型が生産されて現在に至っているのだが、今度うちにやってきたのは、OHC63ccのスーパーカブC65(65ccではない)というやつで、1964年末から1965年まで、約一年間だけ生産された63ccのバイクだ。

どの道にもマニアというものはあるのだが、古いスーパーカブは格別で、特に最初期のOHVエンジン搭載モデルであるC100とC105はクラシックカブの中でも一番人気が高い。今度うちにやって来たC65はOHCエンジンへの移行期の最初のもので、現行のスーパーカブの先祖に当たるものだ。ただし、63ccなので、原付二種と言って、50ccと違って、30キロ制限はないし、二人乗りができる。うふふ・・。



おん年48歳のご老体だ。はるばる静岡からやって来た。今もリアフェンダーに黄色のシールが残っている。「車籍票 A10932 愛知県」どうやら、最初は愛知県で登録されたようだ。

とにかく、まず、彼(多分男性だろうな)を長い長い眠りから目を覚まさせてやらなければならない。動くようにならなければ、ただの鉄くずだ。

引き取ってきた翌日の夜、暗い中で、一生懸命、キックしてみる。キックは降りる。次は、点火プラグを抜いて、キックする。火花が飛ぶはず・・・。あれれ、飛ばない?
大汗をかきながら、なんどもキックする。おお、飛んだ、飛んだ。一安心だよ。



まずは、移動させやすいように、パンクしていた後輪のパンク修理をした。ついで、レッグシールド、タンク、シートを外して、裸にした。マフラーはおそらく長年月の間に腐ってしまったのだろう、新しいのが付いている。しかし、大抵の部品はオリジナルのままのようだ。


例えば、このオレンジ色のはセレン整流器といって、エンジンのダイナモから発電された交流電気を6ボルトの直流に変えて、灯火類やらホーンなどに流す仕掛けだが、極めて古典的なものだ。効率が悪いので、現在はシリコンダイオードを使っている。


一番手を焼いたのは、このメインスイッチだった。鍵屋さんでスペアキーを作ってもらったのだが、経年変化で接触不良のため、ちゃんと動作しない。結局分解して、接点にハンダを盛って、接点が回復した。キーのシリンダー部は分解する必要なかったのに、分解したため、直径1mm足らずの細いコイルスプリングを飛ばしてしまい、老眼の目を凝らして、床を這い回って探して、やっと見つけたときは嬉しかったよ。それも一度ならず、何回も飛ばして、それでも見つかったときは、「俺には、ネ申がついてる!」と思ってしまった。馬鹿みたい。

あとは、配線図とにらめっこしながら、色分けされた電線を追っかけていき、とうとう、前照灯ハイ・ロー、ニュートラルランプ、スピードメーター照明灯、尾灯、停止灯、前後ウィンカー、全て動作するようになった。47年の歳月でウィンカースイッチも接触が悪くて、これも分解して掃除したのだが、こんな、雨風にさらされるところで、おまけにごく小さなスペースに、こんなややこしい、しかも原始的な部品を詰め込んだ、昔の技術者や現場の職人さんたちのことを思わずにはいられなかった。今なら、すべて電子的にユニット交換だろう。


とにかく、すったもんだの挙句、ある早朝、タンクもシートも、ステップも付いていないままに、走らせてみた。まだ、ナンバーはなく、ライネケが手に持っているのは、いささか滑稽だが、エンジン調整用のガソリンの入った小タンクだ。まるで、やっと散歩ができるようになった入院患者の点滴瓶みたいだな。ここまでで、引き取ってきてから3週間が経っていた。


町役場に行ってもらってきたナンバープレートをつけ、自賠責保険に入り、いよいよ、公道デビューだ。いつものように、サンダル履きに素手で飛び出した。

「もう我慢出来ないんだからあ。」
「ちょっくら、行ってくるわ。」


初めて、オートバイに乗り出したのは、大学病院で研修を始めた頃、アルバイト先に通うため、看護婦さんがスクーターを貸してくれたのがきっかけだった。中型免許を取得し、400ccのオートバイを買って、ネコパコを後ろに乗せて、吉川・京都を往復し始めた。あれから30年以上が経った。

「また、二人乗りして、どこかに行こうよ。」
「・・・・。」


晴れた日の午後、昼休みを利用して、隣町の海岸沿いに走ってみる。
うん、いい後ろ姿だ。