ネコパコとともに、島根県大社町にある大学時代の友達の墓にお詣りして来た。
「Bin」は、出雲大社のある島根県大社町の出身で、京大医学部に現役合格した俊才だった。母子家庭の一人っ子で、お母さんが小学校教諭をして育てられたと自分で言っていた。小柄で、ロイド眼鏡風の眼鏡を掛け、頭でっかちで、いつもちょっと気取ったブレザー姿、何ごとも軽そうに見ていて、そのくせ、気難しくて怒りっぽい、繊細で、仲間内ではちょっと神経質にとり扱われる、自分が中心になろうとせず、斜に構えている、そんな男の子という印象だった。
学生時代、Binは、ライネケの下宿の近くに下宿しており、何かのはずみで付き合いが始まり、下宿近くの吉田銀座界隈の定食屋で夕食を共にしたり、深夜になって、急に思いついて、二人で暗い京都の町を歩いて、ラーメンを食いに行ったりした。とにかく、記憶力劣悪だったライネケは、はっきり言って、医学には不向きの一言に尽きたのだが、そのライネケが、何とか卒業にこぎつけたのは、Binのおかげだ。
卒業後、彼は、大学の泌尿器科に入局し、研修を経て、某県立病院の泌尿器科で働いていた。ライネケが滋賀医科大学の皮膚科で働いていた頃、泌尿器科と病棟が一緒だったので、彼のうわさ話を耳にすることがあったのだが、彼が職場でうまく行っていない、というような話を聞いた。何でも、ちょっとしたことで、職場から姿をくらましてしまうとかいうような話で、彼のことをよく聞きたいと思って、泌尿器科の連中に訊いても、何だか、話題にしたくない、という雰囲気だった。
彼がみずからの命を絶ったという話が伝わって来たのは、卒業後、5、6年目だったか。驚いたと同時に、やっぱり、という気もした。さらにその後、彼のお母さんも死んじゃったという話を聞いた。なんてこった、と思った。誰に聞いたら、真相が聞けるのかも分からず、そのまま20数年が経過した。友人の一人が島根まで行き、Binの叔父さんという人に案内してもらって墓参りしたという話を聞いた。
ずっと長い間、心にかかっていた。とにかく、お墓の在処を知っていて、案内してくれる人がいるうちに、行きたい、と思った。
おいらも若くない。なんとしても行っておかねば。
ネコパコの友人であるSさんが鳥取に住んでいて、その人にも会いに行き、泊めてもらおうという作戦だ。
出雲大社は、数十年ぶりの大遷宮とかいう話で、ゴールデンウィークはもう随分前から宿泊施設は予約満杯で、初日は、まず、有福温泉という所にたまたま空室があったので、一日目は、そこに泊まって、翌日、大社町を目指すことになった。有福は20年前、たまたま通りかかって、食べた蕎麦が素晴らしくうまかったので、長い間、再訪してみたいと思っていた所だった。Chica以外の子どもたちは覚えているかな。
松前町を出て、今治から、しまなみ海道をわたって、尾道に。あとは地道で、三次、邑南町、有福で一泊。
翌日は、江津、大田、大社町に到着。墓参りを済ませて、午後より、松江、米子、鳥取、そして岩美町のSさん宅で二泊。
連休最終日、鳥取、倉吉、真庭、高梁、井原、福山、尾道、しまなみ海道、今治、松前町に到着。
3泊4日、全距離900キロほどだったが、カーナビのおかげで、あまり迷うことなく、平穏無事に行って来られた。一時、連休で大にぎわいの大社町の町外れで、故人の叔父上と待ち合わせしたとき、少し降られただけで、その雨も、まもなく上がってしまい、その他はおおむね晴れの五月の息吹の中を、ネコパコと二人で、ちっちゃなルポGTIで、走り続けた。重苦しいと話に聞いていた日本海も、私達の気持ちが通じたのか、優しく穏やかに見えた。本州に渡るときのしまなみ海道以外はほとんど地道を走り通した。
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島根県の出雲大社町を案内して下さったのは、故人の叔父上であるY氏で、74才の元気な明るい方だった。まず、Y家の御霊屋(みたまや)のある別宅に案内して下さって、当地では、仏教でなくて、神道であること、肉体と精神は滅びても、霊魂は滅びず、御霊屋に戻って来ること、従って、お墓は単にムクロの倉庫のようなものであるに過ぎないこと、などご説明くださり、持参した線香など無用だった。私は、やはり故人Binの友人であったS君の送ってくれた分に私の分とを併せたお供えと、S君の書いた追悼文の便箋とを、故人の写真のまつってある御霊屋の前に置いて、手を合わせ、どこか私達の見えない世界から、私が出雲までやって来て、御霊屋の前にいることを察知して、束の間帰って来てくれているかもしれない故人の魂に祈りを捧げた。
その後、叔父上Y氏のご自宅に伺い、昼食の蕎麦をごちそうになり、故人のこと、ご家族のことなど、お話を聞いた。Y氏は、大変饒舌な方で、神道のこと、神楽のこと、故人はじめ、ご一族のこと、どんどんお話しになり、教員生活引退後も、お忙しく、活発に活動されておられるご様子だった。今は郷土史家みたいに出雲神楽の研究などなさっておられ、また、自宅に鉄塔昇降式のアンテナを設置されて、世界中と交信記録を持つアマチュア無線家でもいらっしゃった。むかし、京大医学部の連中が泊まりに来たこと、その後、これも故人の友人の一人だったM君が墓参に来たことなど、よく覚えておられた。
ちょうど40年前の今ころを思いおこせば、京大医学部に合格した故人は、まだ19才で、Y家の期待を一身に担って、得意のうちに長安の街を駆け抜けた秀才が歌ったように「銀鞍白馬 春風をわたる」気分であったことだったろう。そんな彼が、それから10年後には、人生に行き詰まって絶望して死んでしまうなぞということが、誰に想像できただろう。
私は、出発前、故人の最後の頃の状況、死に至った経緯、それがご家族にどういう風に伝わっていたのかということ、また、その後亡くなられたお母さんのことなどを知りたくて、思い切って、お聞きしたいと思っていた。彼の死を知って以来、彼に対する申し訳なさみたいな気持ちや、同級生の皆が、研究に医療活動にと、はなやかに活躍しているように見える一方で、彼が、あふれんばかりの才を持ちながら、ひっそりと消えて行き、その前後の事情に関して、皆が口にすることを何となく避けている、という印象に関する不満な気持ちが、ずっと、くすぶっていた。しかし、結局一言も切り出せなかった。
雨が上がった大社の町の、春の雑草に囲まれた墓地にあるY一族の墓石の前に立って、そんなこんなの複雑な感情が、もういいんだ、全てがこうして流れ去って行くんだ、という気持ちに押し流され薄れて行くのを感じた。母一人子一人の、掌中の珠のように思って来た子に、若くして先立たれた彼の母親が陥ったであろう、おそろしいような絶望を想像すると、いたたまれない気持ちになるが、彼が死んでしまい、そして、その母親も死んでしまった今となっては、全てが人の世の流れの中の小さな一粒の砂なんだ、うねり流れる潮流の中で、大海原の暗い深い水底に散らばり、溶け込んで、分からなくなってしまうんだ、もう、どうでもいいことなんだ。なんと言うこともないんだ、と思った。
30数年の無縁と薄情の彼方から、突然押し掛けて来た私達に対して、いやな顔をせず、親切に案内の労をとってくれたY氏に、私達は何度も礼を言った。そして、出雲大社の町をあとにしたのだった。
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先を急ぐ私達の車の窓の外は、陽光があふれ、萌え出して来た緑が目にしみる。爛漫の春の息苦しいような草いきれの中で、生と死が同居するのを目の当たりにする。窓ガラスを下げれば、日本海からの海風が流入する。この世界はかくの如くに多嬌であるというのに、そこには何の理由も意味もないのだった。
生の側にいる私。死の側にいるBin。二人の間には何があるだろう。ロナがそうだったように、Binは、この春の重い大気の中に溶け込み、あまねく私達の周りにいるのかもしれないのだった。
生と死の間に境界がない。あらゆる物事に境界がない。真も偽も、明も暗も、裏も表も、全て境界がない。有意味、無意味、有価値、無価値、全ての間に境界がなく、言葉だけあって、実体はない。全ての物事のありよう、私という個を含めて世界のありように意味などなく、ただ、在るというだけだ。意味という言葉概念にさえ意味性がなく、ただただ空であり虚であり無である。この世の何ものにも特別な意味などなく、「意味性」という概念にすら意味がない。だから、「無意味」という概念にも意味がない。全ての物事、事象、想念、観念、概念が有意味、無意味を超えて、いわば空白である。価値があると言い、ないと言う、その根拠になるものが「意味」というものだとすれば、全ての事象と観念にも、本質的「価値」がない。いやいや、本質などという言葉こそ、人を誤らせる。表面も内部も、実質も外殻も、本質も形式も、何も無い。人生が生きるに値する、値しない、という議論そのものが、無意味、というより、意味するものなど全くなくて、空であり、虚であり、廓然として無なのだ。
世界のありように意味などなく、意味という言葉そのものが無意味であり、ただ、在るというだけだ、と理解しても、そんなこと、ちっとも慰めにならないではないか。心なき身になって、この世界を、塊然として独立して、無意味を生きて行くというのは、空恐ろしい話ではないか。これはニヒリズムというべきなのだろうか。
左に日本海の長い海岸線が延々と続く。ライネケ少年は、ハンドルを握りながら、ひたすら、ぼんやりと考え続けるのだった。
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Bin君の霊前に捧ぐ
今夕、古いレコードを取り出し、シベリウスのカレリア組曲を聴く。
アレクサンダー・ギブソン指揮、ロンドン交響楽団演奏
三十数年前、私の下宿の狭い畳の部屋で、このレコードを君と一緒に聴いた。
君は音楽に合わせて大きく手を振り、「リリカルや~」と呟いた。
人生情有り 涙 臆を沾す
江水江花 豈に 終ひに極まらんや
30年の歳月の後、春の日、海を渡り、山々を越え、また海に至った。
御霊屋の前に立ったとき、在りし日の君の姿を思い浮かべた。
ささやかながら、僕の真情を汲んでもらいたい。
請い願わくは受けよ
2013年5月4日
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ところで、有福温泉の蕎麦はどうだったって?
旅館の近くに一軒だけ蕎麦屋の看板がかかった店があるけど、ここだったっけ。20年も経つと、何だか違う気もする。
旅館の夕食のあとで、無理して、夜食の蕎麦を食いに出ようか、とネコパコと相談したのだが、旅館の人に訊くと、あの蕎麦屋の親父は、10年ほど前に死に、あの店はもうありません。今あるのは別の店です、と言われて、夜食の蕎麦はやめた。20年前の有福温泉の蕎麦は幻となったわけだ。これで、有福との因縁も消え去ったのだった。
「Bin」は、出雲大社のある島根県大社町の出身で、京大医学部に現役合格した俊才だった。母子家庭の一人っ子で、お母さんが小学校教諭をして育てられたと自分で言っていた。小柄で、ロイド眼鏡風の眼鏡を掛け、頭でっかちで、いつもちょっと気取ったブレザー姿、何ごとも軽そうに見ていて、そのくせ、気難しくて怒りっぽい、繊細で、仲間内ではちょっと神経質にとり扱われる、自分が中心になろうとせず、斜に構えている、そんな男の子という印象だった。
学生時代、Binは、ライネケの下宿の近くに下宿しており、何かのはずみで付き合いが始まり、下宿近くの吉田銀座界隈の定食屋で夕食を共にしたり、深夜になって、急に思いついて、二人で暗い京都の町を歩いて、ラーメンを食いに行ったりした。とにかく、記憶力劣悪だったライネケは、はっきり言って、医学には不向きの一言に尽きたのだが、そのライネケが、何とか卒業にこぎつけたのは、Binのおかげだ。
卒業後、彼は、大学の泌尿器科に入局し、研修を経て、某県立病院の泌尿器科で働いていた。ライネケが滋賀医科大学の皮膚科で働いていた頃、泌尿器科と病棟が一緒だったので、彼のうわさ話を耳にすることがあったのだが、彼が職場でうまく行っていない、というような話を聞いた。何でも、ちょっとしたことで、職場から姿をくらましてしまうとかいうような話で、彼のことをよく聞きたいと思って、泌尿器科の連中に訊いても、何だか、話題にしたくない、という雰囲気だった。
彼がみずからの命を絶ったという話が伝わって来たのは、卒業後、5、6年目だったか。驚いたと同時に、やっぱり、という気もした。さらにその後、彼のお母さんも死んじゃったという話を聞いた。なんてこった、と思った。誰に聞いたら、真相が聞けるのかも分からず、そのまま20数年が経過した。友人の一人が島根まで行き、Binの叔父さんという人に案内してもらって墓参りしたという話を聞いた。
ずっと長い間、心にかかっていた。とにかく、お墓の在処を知っていて、案内してくれる人がいるうちに、行きたい、と思った。
おいらも若くない。なんとしても行っておかねば。
ネコパコの友人であるSさんが鳥取に住んでいて、その人にも会いに行き、泊めてもらおうという作戦だ。
出雲大社は、数十年ぶりの大遷宮とかいう話で、ゴールデンウィークはもう随分前から宿泊施設は予約満杯で、初日は、まず、有福温泉という所にたまたま空室があったので、一日目は、そこに泊まって、翌日、大社町を目指すことになった。有福は20年前、たまたま通りかかって、食べた蕎麦が素晴らしくうまかったので、長い間、再訪してみたいと思っていた所だった。Chica以外の子どもたちは覚えているかな。
有福温泉にて |
松前町を出て、今治から、しまなみ海道をわたって、尾道に。あとは地道で、三次、邑南町、有福で一泊。
翌日は、江津、大田、大社町に到着。墓参りを済ませて、午後より、松江、米子、鳥取、そして岩美町のSさん宅で二泊。
連休最終日、鳥取、倉吉、真庭、高梁、井原、福山、尾道、しまなみ海道、今治、松前町に到着。
3泊4日、全距離900キロほどだったが、カーナビのおかげで、あまり迷うことなく、平穏無事に行って来られた。一時、連休で大にぎわいの大社町の町外れで、故人の叔父上と待ち合わせしたとき、少し降られただけで、その雨も、まもなく上がってしまい、その他はおおむね晴れの五月の息吹の中を、ネコパコと二人で、ちっちゃなルポGTIで、走り続けた。重苦しいと話に聞いていた日本海も、私達の気持ちが通じたのか、優しく穏やかに見えた。本州に渡るときのしまなみ海道以外はほとんど地道を走り通した。
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島根県の出雲大社町を案内して下さったのは、故人の叔父上であるY氏で、74才の元気な明るい方だった。まず、Y家の御霊屋(みたまや)のある別宅に案内して下さって、当地では、仏教でなくて、神道であること、肉体と精神は滅びても、霊魂は滅びず、御霊屋に戻って来ること、従って、お墓は単にムクロの倉庫のようなものであるに過ぎないこと、などご説明くださり、持参した線香など無用だった。私は、やはり故人Binの友人であったS君の送ってくれた分に私の分とを併せたお供えと、S君の書いた追悼文の便箋とを、故人の写真のまつってある御霊屋の前に置いて、手を合わせ、どこか私達の見えない世界から、私が出雲までやって来て、御霊屋の前にいることを察知して、束の間帰って来てくれているかもしれない故人の魂に祈りを捧げた。
その後、叔父上Y氏のご自宅に伺い、昼食の蕎麦をごちそうになり、故人のこと、ご家族のことなど、お話を聞いた。Y氏は、大変饒舌な方で、神道のこと、神楽のこと、故人はじめ、ご一族のこと、どんどんお話しになり、教員生活引退後も、お忙しく、活発に活動されておられるご様子だった。今は郷土史家みたいに出雲神楽の研究などなさっておられ、また、自宅に鉄塔昇降式のアンテナを設置されて、世界中と交信記録を持つアマチュア無線家でもいらっしゃった。むかし、京大医学部の連中が泊まりに来たこと、その後、これも故人の友人の一人だったM君が墓参に来たことなど、よく覚えておられた。
ちょうど40年前の今ころを思いおこせば、京大医学部に合格した故人は、まだ19才で、Y家の期待を一身に担って、得意のうちに長安の街を駆け抜けた秀才が歌ったように「銀鞍白馬 春風をわたる」気分であったことだったろう。そんな彼が、それから10年後には、人生に行き詰まって絶望して死んでしまうなぞということが、誰に想像できただろう。
私は、出発前、故人の最後の頃の状況、死に至った経緯、それがご家族にどういう風に伝わっていたのかということ、また、その後亡くなられたお母さんのことなどを知りたくて、思い切って、お聞きしたいと思っていた。彼の死を知って以来、彼に対する申し訳なさみたいな気持ちや、同級生の皆が、研究に医療活動にと、はなやかに活躍しているように見える一方で、彼が、あふれんばかりの才を持ちながら、ひっそりと消えて行き、その前後の事情に関して、皆が口にすることを何となく避けている、という印象に関する不満な気持ちが、ずっと、くすぶっていた。しかし、結局一言も切り出せなかった。
Y氏と並んで、大社町内にあるY一族の墓地に向かう |
雨が上がった大社の町の、春の雑草に囲まれた墓地にあるY一族の墓石の前に立って、そんなこんなの複雑な感情が、もういいんだ、全てがこうして流れ去って行くんだ、という気持ちに押し流され薄れて行くのを感じた。母一人子一人の、掌中の珠のように思って来た子に、若くして先立たれた彼の母親が陥ったであろう、おそろしいような絶望を想像すると、いたたまれない気持ちになるが、彼が死んでしまい、そして、その母親も死んでしまった今となっては、全てが人の世の流れの中の小さな一粒の砂なんだ、うねり流れる潮流の中で、大海原の暗い深い水底に散らばり、溶け込んで、分からなくなってしまうんだ、もう、どうでもいいことなんだ。なんと言うこともないんだ、と思った。
大にぎわいの出雲大社境内 雨が上がり 光が降り注いで来た |
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先を急ぐ私達の車の窓の外は、陽光があふれ、萌え出して来た緑が目にしみる。爛漫の春の息苦しいような草いきれの中で、生と死が同居するのを目の当たりにする。窓ガラスを下げれば、日本海からの海風が流入する。この世界はかくの如くに多嬌であるというのに、そこには何の理由も意味もないのだった。
生の側にいる私。死の側にいるBin。二人の間には何があるだろう。ロナがそうだったように、Binは、この春の重い大気の中に溶け込み、あまねく私達の周りにいるのかもしれないのだった。
生と死の間に境界がない。あらゆる物事に境界がない。真も偽も、明も暗も、裏も表も、全て境界がない。有意味、無意味、有価値、無価値、全ての間に境界がなく、言葉だけあって、実体はない。全ての物事のありよう、私という個を含めて世界のありように意味などなく、ただ、在るというだけだ。意味という言葉概念にさえ意味性がなく、ただただ空であり虚であり無である。この世の何ものにも特別な意味などなく、「意味性」という概念にすら意味がない。だから、「無意味」という概念にも意味がない。全ての物事、事象、想念、観念、概念が有意味、無意味を超えて、いわば空白である。価値があると言い、ないと言う、その根拠になるものが「意味」というものだとすれば、全ての事象と観念にも、本質的「価値」がない。いやいや、本質などという言葉こそ、人を誤らせる。表面も内部も、実質も外殻も、本質も形式も、何も無い。人生が生きるに値する、値しない、という議論そのものが、無意味、というより、意味するものなど全くなくて、空であり、虚であり、廓然として無なのだ。
世界のありように意味などなく、意味という言葉そのものが無意味であり、ただ、在るというだけだ、と理解しても、そんなこと、ちっとも慰めにならないではないか。心なき身になって、この世界を、塊然として独立して、無意味を生きて行くというのは、空恐ろしい話ではないか。これはニヒリズムというべきなのだろうか。
左に日本海の長い海岸線が延々と続く。ライネケ少年は、ハンドルを握りながら、ひたすら、ぼんやりと考え続けるのだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
Bin君の霊前に捧ぐ
今夕、古いレコードを取り出し、シベリウスのカレリア組曲を聴く。
アレクサンダー・ギブソン指揮、ロンドン交響楽団演奏
三十数年前、私の下宿の狭い畳の部屋で、このレコードを君と一緒に聴いた。
君は音楽に合わせて大きく手を振り、「リリカルや~」と呟いた。
人生情有り 涙 臆を沾す
江水江花 豈に 終ひに極まらんや
30年の歳月の後、春の日、海を渡り、山々を越え、また海に至った。
御霊屋の前に立ったとき、在りし日の君の姿を思い浮かべた。
ささやかながら、僕の真情を汲んでもらいたい。
請い願わくは受けよ
2013年5月4日
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BOCCA DELLA VERITA 真実の口 gnothi heauton 汝自身を知れ |
ところで、有福温泉の蕎麦はどうだったって?
旅館の近くに一軒だけ蕎麦屋の看板がかかった店があるけど、ここだったっけ。20年も経つと、何だか違う気もする。
旅館の夕食のあとで、無理して、夜食の蕎麦を食いに出ようか、とネコパコと相談したのだが、旅館の人に訊くと、あの蕎麦屋の親父は、10年ほど前に死に、あの店はもうありません。今あるのは別の店です、と言われて、夜食の蕎麦はやめた。20年前の有福温泉の蕎麦は幻となったわけだ。これで、有福との因縁も消え去ったのだった。
3 件のコメント:
<ネコパコ>
よい天気に恵まれながら積年の気がかりが一つ解消
ナビさまのおかげを持ちまして無事に旅を遂行できました
感謝です
ちょっと泣いてしまった。
色々難しいことはあるけれど、
生きていくのが一番難しいと思うから。chica
<ライネケ>
いまだにお坊ちゃんのライネケより、Chicaさんに
生きて行くのが難しかろうが、易しかろうが、ほっておいても、人生の時は過ぎて行く。
それで、何か意味のあることをしなくてはいけないんじゃないか、というのは、現代人の独り相撲なんじゃないか。考えてみれば、意味のあることってなんだろう、そもそも、意味ってなんだろう、そもそも意味なんていうもの自体が存在しないんじゃないだろうか、というのが、一つのテーマです。
そんな思いとは無関係に、やはり、この世界は、人生は、美しく、しかも、悲哀に満ちている、で、心なき身にはなれず、やはりいろいろと考えてしまう、というのがもう一つのテーマです。
お坊ちゃんの時間つぶしの夢想と言われれば、それまでです。
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