2012年1月11日水曜日

年が明けて <ライネケ院長>

今、医者にあるまじき、真っ黒の爪をした指で、キーボードを叩いている。風呂に入っても、泥まじりのオイルがとれないんだ。

今日午後、朝の外来の終わったあと、昼食もそこそこに、松山市の陸運事務局の車検場に行き、CB400Four(1976)の車検を受けて来た。

12月の末、29日の冬休みの開始から、1月3日まで、ずっと整備していた。まず、フロントディスクブレーキのマスターシリンダー、錆びて虫食いになっていたキャリパーピストンとシールを交換し、ヘドロのようなブレーキフルードを交換した。少なくとも10年以上も交換していないディスクパッドも交換した。


エア抜きをしようとすると、アルミのキャリパーにねじ込まれていた鉄製のブリーダーバルブが錆びて固着しており、どうしても抜けず、キャリパー自体を新品に交換せねばならないという苦境に追い込まれた。焦って発注し、それが宅急便で届いたその直前、ガスバーナーでキャリパーをあぶって、バイスプライヤーでつかんでまわすという強引なやり方で、抜けた。新品キャリパーはお蔵入りとなり、15000円は無駄遣いになった。


上が古い前後輪、
下が、オークションで買っておいた中古のきれいなリム
最大の案件は、前後のホイールとスポークが恐ろしいような錆だらけで、ずっと以前から何とかしたいと思っていた。三年前、中古で小ましな鉄リムと中古スポークをオークションで安く買ったのだが、面倒くさくて放置していた。ついに今回、思い切って、前後輪を外し、タイヤを抜き、リムとスポークとハブを分解し、アルミのハブを真鍮ブラシで磨いた。

フウフウハアハア、いつもの調子で、熱心に取り組むGama君
年末年始にかけては、ずっと、初めてのスポーク組みと、締め込み、リムの振れとりにかかり切りだった。鈴鹿から帰って来ていたGama君も手伝ってくれた。振れ取り台には脚立を使った。こんなもんだろうという、適当な所で切り上げたが、こだわればまだ終わってなかったかもしれない。

上がつるつるの古いタイヤ
下が、三年前に買っておいた新品チューブレスタイヤ
さて、組み上がったホイールに、これまた新品といっても三年も前に買っておいたタイヤを組み込もうではないか。武器は、二本のタイヤレバーと大型ドライバーだけだ。スポークホイールなので、本来、チューブタイヤなのだが、最近はチューブレスタイヤを流用せざるを得ない。チューブレスタイヤの耳が固くて、固くて、前輪は何とか入ったけれど、後輪が極めて頑強に抵抗し、手こずった。吹きさらしの寒いガレージで、大汗を流して、ああやったり、こうやったりと、大格闘すること2時間以上、やっと収まった。おいらは150キロ以上も出すわけじゃないんだから、バランス取りはしない。

最後は、おびただしい錆びとこけ傷だらけの排気管を、中古の
オークション落札品に交換した。集合した4本の排気管の口を、全部同時に、シリンダーヘッドの排気孔部にあてがい、二枚のジョイントカラーとフランジを二本のスタッドボルトで締め込んで一個ずつ固定していくのだが、一人で、マフラーを取り付けた重い集合排気管を支えながら、狭い空間を無理して、片手で締め込む作業ですっかり腰が変になってしまった。



なんといっても、この4気筒の排気管が、微妙な曲線を描いて集合していく所が、この赤と黒だけの車の最大のチャームポイントなのだね。


そういうわけで、今も、両手の指は、温泉に入って、何回も石鹸で洗ったのだが、真っ黒のままできれいにならない。



どう?
後ろ姿もなかなか好い
きれいになったでしょ。
シートの鋲も光ってる。
まだ岡山ナンバーのまま。
錆びだらけのメッキ部分をCRCを吹き付け、真鍮ブラシで磨き上げ、なるべく光らせてやった。春までまだ遠い一月の午後の日差しの中で見るCBは、小柄ながら、なかなかの粋な伊達者なのだった。


この車は1980年頃、大阪の松屋町筋という中古オートバイ屋が道の両側にずらりと並ぶ町に行って、買った。1976年製だけど、発売されたのは76〜77年の短期間に少台数生産された、いわゆる幻の絶版車というもので、すでに中古しかなかった。新車価格31万円の物を2年車検付き中古で32万円程で買ったかな。以来、30年以上の付き合いだ。


CB400Fourは、この398ccのCB400Four−Ⅰの他、CB400Four−Ⅱ、初代の408ccを各1台、合計3台所有しているが、結局ずっと乗り続けたのは、このCB400Four−Ⅰだった。この車と一緒に、何度、四国一周をしたことだろう。夏も冬も、雨風の中を、太平洋を左手に見ながら、一人で走った。オートバイには、自動車で雨風から守られて走るのとは違う何かがあるのだとしか言いようがない。


それにしても、いい加減な凹み直しだよな。
でも、いくらきれいでも、
床の間バイクは死物だ。
何度も転倒した。その度に乗り手も車も治し直して乗り続けて来た。友人が幾人かオートバイで死んだ。打撲だけで済んで来たのが不思議なくらいだ。オートバイはこけるものだ。こけるたびに新品部品に交換していたら、財布が持たない上に、こけないように、汚れないように、座敷に飾っておくしかなくなる。30年間乗り続けて来られたのには、金をなるべく掛けずに来たからという面もあるだろう。錆びだらけ、傷だらけでも、要所要所に手間をかけて来たという30年間の信頼関係みたいなものがある。他人には分かるまい。


この車を英語で語るとしたら、he扱いなのか、sheなのか、それとも、itで呼ぶべきなのか、分からない。ライネケは、いつも、フォアとかシービーとか、フォーインワンとか呼んで来た。でも女性とは思わないね。


"THE BEAUTIFUL DREAMER"
美しき夢見るもの

ある英国人小説家の冒険小説の中で、主人公たちが使うことになる、第二次世界大戦で使われた中古の爆撃機の外板に「美しき夢見るもの」とペンキで書いてある、という下りがある。原文ではどうなってるか知らないんだ。滋賀にいた昔、このフォアのタンクの下縁にラベルを貼付けた。
「THE BEAUTIFUL DREAMER」
これじゃ、夢見る人が美しいという意味になり、夢見るその夢が美しいという意味にはならないね。そういう意味にしようとすると、くどい英語になりそうだ。やっぱりこれでいいのかもしれない。赤かったはずのラベルも色褪せてしまった。ライネケの夢はいずこに。君の夢って何だったっけ。

奥に見えるのは、ステアリングタイロッドを交換して、
膝のガクガクが治ったばかりのカブリオ

日が傾いて来た。
塗装が剥がれていても、傷跡があらわでも、振り返れば、

春まだ浅く
出会ひしころ、
入り日に立てる
吾が見し君はも。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

<ネコパコ>
はじめて出会ったころは自転車派だったので、こんなにもオートバイに取りつかれるなんて思ってもいませんでした。
タンデムシートの後ろで居眠りしながら駆け抜けた丹波路、お腹の中の子がポコポコお父ちゃんの背中を蹴ったり、雪道で転んで流産の心配したり…と長い付き合いです。
あんまり楽しそうに乗っているのを見て、私も中型免許を取りましたが、自力ツーリングに行ったのは2度ばかり
子どもがいるとさすがにそんな暇はない
賢い大人になったわけではないのに、できなくなったことは結構ある
最近は50CCで30㎞の速度がこわい
我ながらあきれてしまう 

いつまでも楽しく乗り続けてください
どこまで行ってもいいけれど
出かけたら、これからも自力で帰宅してください

匿名 さんのコメント...

滋賀のトンネルの中を
大人用のヘルメットで抜けたら
首がもげるかと思ったのは
いくつの時かな。小学1年か2年の時のはず。
弓をかついで乗ったり、
色々危ない事をした気はしますが、
バイクに乗せてもらえるなんて
カッコいいと、幼いながらに感じていました。

いまだに、サイドカーならぬ
バックカーを牽引してもらって
どこかの海沿いのカーブを走りながら
前のバイクの傾きに合わせて
ハンドルをきる夢を見ます。
chica

inchoudon さんのコメント...

<ライネケ>
「どこかの海沿いのカーブを走りながら
前のバイクの傾きに合わせて
ハンドルをきる夢」
コーナーの途中、後ろから見る、バンクしたバイクって、美しい。物理的な平衡を保ちながら、人の無意識の何かによって、危うい平衡をコントロールされているっていう見事さがさ。単なる物理的な現象を越えた何かを感じるとでもいうのか。「どこかの海沿い」っていうのが、そう、その通り、としか言いようがないな。