サクラの花ももう終わってしまった。
風が強かったので、4階の私の部屋のベランダにまで花弁が上がってきていた。
震災のあおりをうけて、知人が職を求めて海外へ移住することを決意したと
昨日報告に来て下さった。
今年小学校にあがったお子さんがいる家庭である。
不況で苦しい業界に勤めておられたが、
今回の震災で完全に歯車が止まってしまったらしい。
日本ではもう、仕事を続けていくことがままならない。
最悪の事態を想定した時、動けるうちに動かなければ
前に進むことも、立ち止まることも出来なくなる。
色々考えて、考えて、考えた末の決断だろう。
お話し下さる言葉と強い目が、全てを語っていた。
多くの人が様々な判断を迫られている。
苦渋の決断もあるだろう。
安定した職と生活に身を委ねる自分を省みて
色々と考えさせられた一晩でした。
chica
7 件のコメント:
<ライネケ>
人それぞれに様々の思いと苦しさがあることだろう。重い決断を下された方達の前途を祈る。
ライネケは、おそらく、よほどの事態にならない限り、国内に留まるだろう。再び原発が爆発しても、愛媛にはあまり影響は及ばないだろうと思っている。
仕事の上では、不況になることだろうが、ライネケを必要とする人はいると思う。でも、日本に留まるのは、なんと言っても、ライネケの方こそ、日本を必要とするから。日本という国、日本人という人々、日本の国土、日本の四季。そういう日本のすべてがあってこそのライネケという「私」なのだと思うから。
屋上から南方向に望む山々の重なりの美しさ、夕暮れ時の西の空の色合い。人生の美しさとはかなさを痛切に感じる。
かつて、大大和豊葦原国(おおやまと とよ あしはらのくに)と歌われた日本の国土をこんなに愛おしく思ったことはなかった。
<ネコ-パコパコ>
すべての人々に決心を迫るいろんな波が来る
それは本当は「いつも」の事だったのだけれど
知らぬ顔して大半をやり過ごして来た
それが日常のありきたりの風景と言うもの
脈絡もなくサーフィンの映像が頭に浮かんだ
腹這いになって沖にこぎだし
波を捉えて陸に向かって戻ってくる
向かうのは陸地なんだ、結局
心細くても外洋にこぎだす人がいる
東南アジアからのボートピープル
逃げ出すリスクと求める希望と
天秤にかけて考え込んだらやってられない
見知らぬ大地を目指すその勇気
昨日読んだ新聞記事でタコツボ学者と言う言葉があった
ひどく気に入った
昔の職場の教授、助教授蓮の顔が思い出された
のどかな時代だった
私の頭は今、蓋がない訳ではないけれど
どこかしまり悪く感情が時々放射性物質のように周囲を汚染しながらりゅうしゅつしてしまう
一番の被害は多分 R氏
<ネコパコ>改め<ネコ-パコパコ>が適切だと思う
<ライネケ>
「ネコパコ」改め「ネコ-パコパコ」だって?
むしろ、「ネコ・パーコレーター」っていうのはどうかな?
いつでも、熱いコーヒーが飲める。いいじゃないか。
ライネケは被害者じゃなくて、ネコパコの放射線に対して、答えるすべがない。自分もタコツボのタコであったと思うから。日本の知識階級として、このような重大事故の可能性を想像し、予測できたにもかかわらず、具体的行動がとれず、かくのごとき国難に至らしめた連帯責任の一端を思うと。
しかし、反省ばかりしていてもしようがない。我々は生き続けるしかないのだからね。自分の日々の責務を果たしつつ、自分の意見をはっきり表明するよう生きよう。
<ネコパコパコ>
ネコパーコレーターはいつも頭から蒸気をたてて
怒り狂っているような雰囲気ですね
むしろ確かにその雰囲気かもな、現況は…
エーエーイッ
失せろ タコども!とか
この税金泥棒が!とか
あげくの果てはこのざまか!とか…とか
ああ、もう少し宮沢賢治的に怒って、慟哭したい
<ライネケ>
>ああ、もう少し宮沢賢治的に怒って、慟哭したい
宮沢賢治は怒ったりしたっけ。そうだった。昔、老ライネケが、いつも食卓で朗誦していたよ。彼の朗唱を聞かせたかった。ちょっと、今じゃ、ちょっと聞かないような名調子だった。
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正午(まひる)の管楽よりもしげく
琥珀のかけらがそそぐとき
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾(つばき)し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
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宮沢賢治は何に怒っていたのだろう。東北の苛酷な風土に耐えねばならなかった農民たちの運命にか?それをどうしようも出来ない自分の非力さに対してか?
まさか、あのイーハトーブがこんなことになるなんて・・。また涙が出そう。
あの惨状、家も、職場もすべて流されてこの先どうなっていくんだろうと呆然とする人々を見ると、
「日照りの夏はおろおろ歩き」という賢治の一節を思い出し、
無力であっても「でくのぼうと言われ」ようともせめて心は寄り添っていたいもの、
と自分はこちらにいて何ともないものの言い訳のように思う日々です。
本当に、どうにもならなくなる前に身の振り方を考えて決断する勇気、
独身時代にいた大阪の小さな商店が回らなくなり、
軽トラックに布団を敷いて子供たちを乗せて故郷に帰って行ったある一家を思い出しました。
<ライネケ>
kurashiki-keiko様、
「故郷に帰る。」どんなに貧しくて、どんなに不便であっても、帰ろうと思えば帰れる「故郷」があることが最後の希望です。その「故郷」が永久に失われてしまった人たちもいます。その人たちことを思うと言葉を失います。
私たち日本人にも何か、共通の「故郷」があって、それがそこなわれてしまった、という気がして、悲しいのです。
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