2010年6月28日月曜日
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Meshi
2010年6月24日木曜日
あーたーらしィ 朝が来たっ ♪♪♪
2010年6月18日金曜日
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2010年6月11日金曜日
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2010年6月8日火曜日
ライネケの冒険 海からの贈り物2
2010年6月6日日曜日
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2010年6月4日金曜日
ライネケの冒険 五月最後の船出 <ライネケ>
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五月最後の日曜日の朝、6時前に目が覚めた。屋上でくるくる回る風見鶏を見上げて、呼びかける。Chicaちゃん、元気にしてるか?あまり、頑張り過ぎなさんなよ。
携帯電話と免許証を防水パックに入れて首からぶら下げ、短袖シャツの上に薄いウィンドブレーカーをはおって、ガレージに行く。すでに、昨日、メルセデスの上にはアクアミューズとマストセールが固定してある。
6時半。これから、浜に向かう。
******** 第二章(承) *********
いつもの渚には、釣り人たちが竿を出している。風は2m足らずというところかな。東風、つまり陸風だ。あれれ、マストと一緒にくくりつけていた筈の風見がない。我ながら、最近、妙に詰めが甘くなっている気がする。これから、どんどんこの傾向が進むのだろうか。きっと、そうなのだろう。
7時過ぎ。艤装を終わり、釣り人たちから少し離れたところで、アクアミューズを押し出す。追い風で、600m程の沖あいに向かって、ゆっくりと出て行く。まずは、塩屋の浜の南端に向かい、その後、反転して、北上し、重信川の河口にむかって、浜と平行に進もう。風をほぼ真横から受ける、いわゆるウィンドアビームという進み方で、一番よく走るのだそうだが、あらあら、思ったように北上できない。いつの間にやら、風向きが変わったのか、風は北から吹いてくるような。なんで? 潮の流れもあるようだ。
とにかく、ジグザグながら、北上を続け、重信川河口を越える。いく艘かの漁船が操業しており、邪魔にならないように、帆にかくれる方向を監視する。すったもんだの末、隣町の今津の港の突堤が近づいて来た。
今津港の北側の松山空港から、ジェット機が轟音とともに、30度足らずの角度で、機首を上げて、直線的に離陸上昇して行く。飛行機の離陸は美しくて、大迫力だが、沖縄の米軍基地周辺の人達は、この轟音を終日聞かされて、毎日腹立たしい思いをしていることだろう。気の毒だね。うちの町の上空を通過して行くときでも、時々かなりうるさいものな。
とうとう、今津港突端の赤い灯台を越えた。
7時40分程。今から帰れば、もとの浜に着くのが8時過ぎ。艤装をはずして、車に積み、家に帰り着くのが9時頃だから、ちょっと遅いめの朝食だね。という胸算用で、反転して、南下を開始する。
帰りは追い風なんだが、さっさと南に進んでくれない。なんでやろ?と考えているうちに、さっき渡った重信川の河口を過ぎる。と、えらい勢いで南に向かって進み出した。まるで吹き流されているみたいに。どうやら、重信川の流れ出しが、北にむかっていたため、なかなか南に進んでくれなかったのが、流れ出しの影響が少なくなる海面にたどり着いた途端に進み出したようだ。それだけでなくて、風も一段と強くなって来たみたいだ。
出発点の渚が見えて来た。舟運搬のための小さな台車と目印の旗竿を、波打ち際から、かなり離しておいて来た筈だが、今にも波がかかりそうだ。潮が満ちて来ているのだ。このままじゃ、台車が流されてしまう。そろそろ切り上げて、着岸するべく、渚に向かう。
気がつくと、青かった空が暗くなり、北風が冷たくなって来た。えええっと声を上げそうになる程、風が強い。理屈では、真北から吹く風を真横から受けて、岸に向かって東方向に直進できる筈なのに、どんどん南に向かって吹き流される。風を読み間違えているのかしらん。おかしいな。
9時半。波打ち際でゴタゴタして、岸辺の釣り人に迷惑をかけてしまった。ごめんなさい。とにかく、着岸できた。台車を波打ち際から、さらに離れたところに引き上げて、あらためて、海を眺める。風がビョウビョウと音を立てる感じで吹いている。波も強くなって来ている。気温も下がっているようだ。アクアミューズに乗るようになって、初めてと言っていいくらいの強風。朝ご飯が待つ時間だが、いい風がもったいない。もう一度海に出てみよう。
どんどん沖合に出る。帆が一杯に風をはらんで、舟が傾く(ヒール)。舟を起こすべく、両足をつっぱり、船縁から腰から上を張り出して(ハイクアウト)、全身でバランスをとる。すごい!我ながら、まるで、何かの本で見るディンギーセーリングの写真みたいだ。
塩屋の浜の海上を、とにかく、いろいろな方向に進んでみる。ますます、風が強く、波が高くなって来た。楽しいかって? いや、何だかちょっと怖くなって来た。水は冷たいし。全身を船の外に張り出して、風と釣り合うのだが、その間、片手で帆綱を引き、同時にもう一方の手で舵をとらなくてはならない。とにかく、傾いた舟を起こすのだけで精一杯。
いつも 独りの浜辺に 打ち上げられるだけ
******** 第三章(転) *********
風上に向かって斜めに切り上がりながら、方向を変えた直後、今までとは反対側に大きく舟が傾いた。反対側の舷側に腰を移して、全体重をかけて舟を起こそうとしたのだが、間に合わず、一気に大量の海水が艇内に入った。
帆綱を緩め、帆から風を逃がして、舟を止める。艇内は舷側まで海水で一杯になり、両舷に接着してある浮力体で、かろうじて浮いているが、マストだけ水面に出て、艦橋だけ水面に出した潜水艦みたいな状態だ。
周囲は、一層高くなった波が上下して、渚が遥か遠くに見える。手から離れた舵棒を執るために、艇後方に移動すると、艇尾が深く沈んで、舟が棒立ちになりそうになる。あわてたため、今度は、右側のサンダルが脱げて流れてしまった。目の前を、黒いサンダルが流れて行く。今頃になって、急に恐怖感に襲われる。
とにかく、水を出したい。しかし、ああ、何ということだろう。水出し用のバケツが、先ほどの騒ぎで流れ出してしまった。バケツの赤い把っ手が、波間を遠ざかって行くのが見える。おおい、ちょっと待ってくれ。
しょうがない。手で水をすくって掻い出してみる。無駄と分かっているくせに。うろたえているのだ。こういう時は、わざと艇をひっくり返して、いわゆる沈の状態にして、再度艇を起こして、水を出してしまえばいいのだろう。しかし、波は高いし、風も強い。水は一層冷たくなったようだ。水際から遠く離れた海上で、艇をひっくり返して、暗くて深い海に首まで浸かって、もし起こせなかったらどうしよう。水の中に出る勇気が出ない。
しばらく頭が空白になり、呆然とする。なんとかしなくては。
水瓶になった艇の中央部にそおっと座って、バランスを崩さないように、腰を伸ばして、舵棒をたぐり寄せ、勇気を奮って、帆綱を引き、帆に少しだけ風を受けて、ゆっくり岸に向かって方向を変える。途中で、流してしまったバケツの赤い把っ手が見える。しかし、今は取りに行けない。そんなことはあとまわし。できたらの話だが。それにしても、岸のなんと遠いことか。
ようやく岸が近づいて来た。渚につけて、残る力を奮い起こして、舟を傾けて、水を出す。舟がまた身軽になった。もう一度舟を出して、バケツを回収に行かなくては。確かあの辺りに流れていた筈だ。見えるか。ああ、見えた。
陰惨な空の下、三度目の船出。先ほどにもまして、風が強く感じられる。今度は楽しむ余裕はない。バケツの浮かんでいるはずの海面に進み、周囲を見渡す。あった。これより反転して、バケツの救助に向かう。回収成功。
サンダルは? 3週間ばかり前、近くのスーパーで、580円で買った、黒いクロックスもどきなんだけど、こんなことで失くしたとなると、安物であっても、欠落感が大きい。あの時の彼奴は、おのれの軽さのために、水瓶となった我が艇と対照的な身軽さで、完全に水面に浮かんで、あっという間に流れ去って行ったっけ。
サンダルは結局見つからず、あきらめて帰る。11時前、帰宅。
******** 第四章(結) *********
赤かぶさん とんだ 今ごろ どこにいるのかな?
翌夕方、引き潮の海辺に行って、渚をずっと歩いて、探したが、見つからなかった。僕の黒いサンダル、今頃、どこにいるのやら。片一方、左側だけのサンダルが、裏玄関で、さびしそうに落っこちている。
ちょっと怖い思いをした半日だった。グループで仲間が近くにいたら、余程気楽だったに違いない。でも、何かに属するのは面倒だし、性に合わないのだ。オートバイでも何でもそうなのだが、オイラには独り遊びがいい。車庫で舟を車に積んで、渚で艤装して、帆走して、また舟を車に積み上げて、家に帰ったら、舟を車庫の天井に吊り上げて、道具を水洗いして、片付けて、終了。これだけの事を、始めから終りまで、自分だけでやる、という全行程が、オイラにとっては、この舟遊びなのだ。自分だけでやれなかったら意味がない。
意味? 人のどんな行為にも、なにがしかの意味があるのだろうか。そもそも、意味とは何だろう。意味の意味って何だろう。世界は別に何の意味もなく、流れ去って行くだけなのではないか。
上下する波間を、あの黒いサンダルが、浮きつ沈みつ、漂って行くように、人は喜怒哀楽の中に浮沈して生きる。一体、楽しみとは何なのだろう。本当の意味での喜びなぞというものがあるのかしら。いつかは滅び逝くものなら、全てが何んの拠り所もなく、善も悪も、喜びも悲しみもない、無意味なものではないだろうか。意味って一体何だろう。
あの失ったサンダルも、ここに残ったサンダルの片割れも、どちらにも意味なぞ無い、ただのプラスチック。世界は無意味なプラスチックなのかもしれない。
人生は短いのだから、楽しまなくては、とか、そう思わなくてはやってられないじゃないですか、とか、何の意味性も論理性もない表現が、もっともらしい口ぶりで語られ、空しい挨拶みたいに飛び交う。生かされている、ありがたい、なぞという生悟りめいた語り口も腹立たしい。言葉は、かくも無意味な符牒なのか。人は何か考えているつもりでも、実は何も考えていないのか。人は、ただ、考える演技をし合っている、空虚な操り人形なのか。本当のことを知りたい。真の言葉を聞きたい。
意味が分からないままに生きて行かねばならない。楽しいことや、うれしいことがあろうがなかろうが、たとえ、砂を噛むような人生であっても、希望とか愛とかいったたぐいの甘い言葉に頼らず、生きることに意味があってもなくても、塊然独立して生きて行くだけの精神の強靭さを持ちたい。
人は 息と影にすぎない
いつの日にか死ぬまで 生きるだけ。ライネケにとって、それが世界の意味なのか。