2015年3月30日月曜日

デビュー  <ライネケ>

我が家の屋上の出入り口には、小さな窓が開いている。

何のための窓なのかな。
実は2年前までは、ちゃんと使われていた。
この2年間、閉鎖されていた。
でも、久しぶりに開けてみた。

ヌオっとしたものは何かな?

おや、おや。
白い何かと思えば・・・。
ゴロちゃんじゃないか。
ついにゴロちゃんの屋上デビューだ。

うちの子は、緑が好きらしいな。
外は気持ちがいいな。
お日様、ピカピカだもの。

 いつまでも、遊んでいたかった。
でも、もう、おうちに帰らなくっちゃ。
帰ったよお。
開けてください。

そおっとね。

 はいれた。
たやいまあ。


 いつまでも、一緒に暮らしていたい。

2015年3月24日火曜日

うにどゥおン を食べたんだよ

蕎麦屋で昼食に食べる親子丼。
これは、「んー、今日はオヤコドンにでもするかね」
ってな感じで、
温かいしお腹いっぱいになれるし手頃なお値段の
庶民派の気のいいドンブリという訳です。

これがカツ丼になると、
「よっしゃ!かつ丼行くぜ!カツカツどんどんだぜ!」
ってな感じで。
なにやら気合を入れたり、容疑者の固い口を開くのに
刑事が奥の手で使うのかもしれないし、
庶民派でありながら、なにやら勢いのある存在という訳です。

それでもって天丼になってくると、
「まぁ、お前も頑張ったことやし、ここはひとつ天丼でも食べるか」
ってな感じで、
ドンブリでありながら奮発しちゃうぞっていう特別感が漂う
ちょっと別格な奴なのです。

ならば、だよ。

4000円する雲丹丼って、どんなもんなんでしょね?

仙人掌姉は考えていました。
というのも、事務長と築地に行くことになって、
色々調べたところ、どうやら雲丹専門のお店があって
雲丹の食べ比べが出来ると分かったからです。
前回行った時に見つけた、「雲丹零れ丼」なんて霞む位の
雲丹ですよ。
それって、どんなもんなんでしょね?

でも堅実に生きている事務長に
「4000円する雲丹丼食べに行こーぜい」なんて言ったら
きっとプルプル震えながら、
「仙人掌子よ、お前家計簿つけてるかい?」って言われるにちがいありません。

ふむ。ならば、知らんぷりして行っちゃえばいいんだな。
右も左も分からない事務長を路地から店に連れ込んで
そのまま有無も言わさず、注文しちゃえばいいんだな。

仙人掌姉は、夜中に青白く光る電子座布団の画面を覗きこみながら
密やかに「シシシシシシシシ・・・」と低く笑い、
翌朝、何食わぬ顔で事務長と地下鉄に乗り、築地へ向かったのでした。


早朝には競りが終わった市場は静かなものです。
事務長は、乾物やら刺身やらがずらずら並んだ店先に面食らい
何がなんやら訳分からん状態で
とある路地に潜り込む仙人掌姉の後ろを付いていった結果、
まんまと雲丹専門店に連れ込まれ、お品書きを前にして、
小さく震えましたが、カウンターに並んだ色とりどりの雲丹を前にして
陥落しました。

さて、話を最初に戻しましょう。
丼と書いて、ドンと読みます。
オヤコドン、カツドン、テンドン、ギュウドン、プテラノドン、イグアノドン。


雲丹食べ比べ丼。

この雲丹丼は、ドンとよんでいいものか。
ここまでくると、 どゥおン  と腹に響く音で発音するべきではなかろうか。
出てきた雲丹丼を眺めながら仙人掌姉は思いました。
一欠けらずつ食べ比べてみると、確かに味が違う雲丹です。
お醤油をかけなくても味がします。

こってり甘い雲丹雲丹うにうに。
4000円の雲丹どゥおン でした。

雲丹味のげっぷを押さえつつ、「嗚呼、食べてしもうた・・・・・・」と
しみじみする事務長の後ろ姿。
 
 

でも、国産雲丹の食べ比べ丼を2種盛にするか3種盛にするかで
とっさに2種盛を選んでしまったのは、選択ミスだったと
仙人掌姉は後悔しています。
せっかくなんだから事務長に3種盛食べて貰えばよかったと思うのです。

 
また今度。ね。






2015年3月12日木曜日

春はめぐり来て <ライネケ>



1995年、阪神淡路大震災の発生した年、2月25日土曜日未明、父が死んだ。
1月29日、倉敷中央病院に入院させてから一ヶ月後のことだった。その日のうちに遺骸を倉敷から松前に引きとって帰り、通夜を行った。翌日日曜日、松前町内の葬儀場で葬式を済ませた。
彼の誕生日は2月11日で、75才になったばかりだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
葬式後、伊予市のはずれの山の上にある火葬場で骨になった父は骨壷に容れられ、松前の我が家に戻ってきた。この鉄筋二階建ての建物は、私が中学校に上がったばかりの頃、働き盛りの父が古い木造の建物を壊して、建て替えたものだった。以来30年、彼はそこで仕事をし、本を読み、音楽を聴いて、一生を送った。
父の蔵書の一部
一時代前のインテリゲンチャらしく
書籍というものへの愛情が深かった
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
火葬場から我が家に戻ってきて、彼を納めるため、家族揃って、これからお墓に行こうとして、一族皆、外に出ていたのだが、私はひとり遅れて、骨壷を抱えて、一階から二階まで、元気だったころの父が新築して、その後の生涯を過ごした建物内を巡り歩いた。彼が自分の城を去る。息子である私は、もう、彼と肩を並べて歩くこともないのだ。
父の集めたレコード
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲が好きだった
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
彼の愛したタンノイ・オートグラフ
イギリス製
えらく大きいが、中のスピーカーは一個だけ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私は、彼が世を去る一ヶ月前まで、およそ三年間、毎月一回松前に帰って、彼と温泉につかったり、夕食をとったりすることを繰り返してきた。そもそものきっかけは、滋賀から倉敷に引っ越してきてまもなく、 I 先生が脳梗塞に倒れられ、もうI 先生のご薫陶を仰ぐことができなくなるかもしれない、という危機感からだった。ひと月に一回、老いてきた父母の顔を見るのと、I 先生のもとで弓を引くことにした。月一回、土日二連休を取って、金曜日の夜、倉敷を出て、松前に夜遅く到着し、一泊したあと、土曜日午前中は堀之内の道場で弓を引き、午後はI 先生のご自宅で弓を引いて、夕方までに松前に帰り、父と夕食をとり、たかの子温泉や道後温泉に入って、喫茶店で珈琲を飲んで帰って、もう一泊した。日曜日の朝、再度、I 先生のご自宅で弓を引いて、そのまま倉敷に向かって引き上げるという繰り返しだった。
自慢だったマランツ8B
真空管式メインアンプ
小さいが、ひどく重い
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ひと月ごとに、半年ごとに、歳ごとに、父が衰えていくのが分かった。痛々しかったが、それに加えて、わがままな父の世話をする母の負担が増していくのを見るのも辛かった。

マランツ7T
トランジスタ式プリアンプ
父は一階の寝室のベッドで寝ているのだが、明け方、廊下の奥にあるエレベーターに乗って、二階に上がってきて、二階のトイレで用を足し、近くの階段を下って、また自室に戻る習慣らしかった。

私は、父の寝室の真上に位置する二階の寝室に泊まっており、明け方近くなると、廊下の向こうから、エレベーターの上がってくる低い音が聞こえ、やがて、私の部屋のドアの前を、父がステッキをつきながら、トイレに向かって、ゆっくりと通りすぎる足音を聴いていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
父の葬式を済ませた後、倉敷に戻って仕事を再開した3月1日まで、母だけになった松前の家で過ごしたのだが、その数日間、二階の寝室に泊まった。ベッドは南枕で頭が廊下側だった。

2月末の明け方の静寂と冷気と暗闇の中で、耳を澄ませて待っていた。廊下の向こうから、エレベーターの低い唸り音が伝わってきて、やがて、父のステッキが廊下を突く音が聞こえて来るのではないかと。
晩年ついていたステッキ
若々しく元気な青年海軍軍医中尉殿だったのに
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
もちろん、そんなことは起こらなかった。石ころ一つ動くわけもなかった。

つまるところ、父は完全にこの世を去ったわけだ。いや、父も私も、そしてこの世のありとあらゆるものごと、事象は、全て、一種の現象にしか過ぎなくて、死とは、現象の解消というようなものに過ぎないのだろう。ありとある現象は連続していて、あらたに何かが生起して、何かが消滅するわけではないのだろう。泡が消えてもとの静水面に戻るように、すべての現象は、本来、大塊の刹那的表出であり、またもとの大塊に戻り、解消していくのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
母の語るところによると、父は最後のころ、「俺の人生は、全て、無駄であった。」と言ったそうだ。春になれば、木の芽がふくらみ、花が咲くのに、何か意味というようなものがあるだろうか。全て無意味であり、無駄といえば無駄なのかもしれないのだ。だとすれば、私の人生も無駄なのだろう。

白いものを見ると
何かを思い出す
春の重い大気の中に
何かが溶けこみ
私の周りにただよっているような気がする
生前の父が語っていたことに関して、彼の死後、ふと、気づいたことが幾つかある。世の人々は幽霊を恐れるが、私は幽霊でもいいから、彼に会って、そんな話をしたい。いや、それどころか、もし本当に幽霊というようなものがあればいいのに。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
彼が死んで二十年経った。私たちが愛媛に帰ってきて、十年が過ぎようとしている。また、春が近づいてきた。春まだ浅き暗闇のなかで、私は今日も耳を澄ませて、廊下の奥から何かが聞こえてくるのを待っている。
彼が愛したオルトフォンのピックアップ
折れるとポンという音がするから
というのは
彼のくだらない冗談だった

それにしても、ひどいほこりだ
きれいにしてやらなければ

Durch das Labyrinth der Brust
wandelt in der Nacht
こんな衒学趣味を面白がる人も、もういないのだった。

2015年3月1日日曜日

ネコパコ事務室だより

 あっ!!やられた 
ズボンの裾ゴム
 マスクのゴム
これで何枚目?!
 とうとうこれまで…
見事な早業 切っぷり
カマイタチ?、?、?
いえいえ そうではありませぬ

さあ、どうだ みたか きいたか わかったか
「紐切りごろうざ」たあ〜
あっしのことだ