2009年6月17日水曜日

内子にて <ライネケ院長>

6月半ば、内子に行って来た。ネコパコ事務長とChicaさんとHaruno君と一緒だ。
内子は松山から約30kmほど西にある町で、和ロウソクと内子座という演劇場で「村おこし」している。随分整備されて、観光客が沢山来るようになった。



内子に、鍛冶屋さんがいて、一人3000円で、燭台を作らせてくれるのだという。Chikaがやってみたいのだという。何とか教室とか、市民講座とか、あまり好きでない上、何ごとにも腰の重いライネケ院長だが、ネコパコ事務長の「あなたも行くのよ。」の一言で行くことになった。「へええ・・・。」

鍛冶屋さんの作業場はJRの内子駅の近くにあって、おじいさん、御当主、息子さんと三代にわたって鍛冶屋をやっているらしい。住まいと作業場は隣接していて、息子さんが作ったらしい鉄製の花の飾りが上に掛けてあった。

これが、基本になるひな形だね。この、鉄の大型カブトエビみたいなのを、金槌でひっぱたいて、好きな形にするわけだ。って言っても、二階の喫茶室にある、親方の作った既製品で、気に入ったのを持って行って、それを模して作るのだと言う。それにしても、いい子になって、言われることをよく聞いて、指図通りのものを作るなんて、一体どこが面白いんだ? ウフフ。オイラを甘く見るなよ。

うまく行くと3000円の元手以上のものが出来るかもしれない、と思うと、俄然、元気が出て来た。ううむ、何だか、イメージがわいて来た。

下から風を送って、コークスを燃やし、その中で、ひな形を熱する。さすが、コークスだね。あっという間に真っ赤になる。

真っ赤になった所で、やっとこでつかんで、カナトコの上で、ガンガン、キンキン、グワングワンと叩くと、水飴みたいにというわけにはいかないが、思いのほかに変形して行く。
親方が、「ご主人は手慣れてますね。何かやってたんですか?」なぞとお愛想を言ってくれるけど、男の子だったら、これくらいの事は、誰でもするよ。うちの子なら。多分、Chikaを除いて。

燭台だから、蠟燭を突き刺す心棒は先細りにして、針みたいに尖らせるんだが、オイラは、ちょっと幅広に扁平に叩いて仕上げた。言われた通りに見本みたいなものは作らない。わけありなんだ。

真っ赤に灼熱した鉄の太い角棒を、両端をつかんで、グイイイイッと捻ると、
飴のねじりん棒みたいな装飾をいれることができる。ちょっと、力が要る。

出来合いの蝋の受け皿

ろうそくを突き刺す心棒、その下の台座になる輪っか部分と、手で持つ把っ手部分が出来上がると、こんなもんかな、という所で、ろうそくが溶けて垂れてきた蠟を受ける受け皿を付けるのだが、出来合いの直径7cmくらいの鉄の円盤を適当に変形させて、中心に穴を開けて、それを溶接付けするわけだ。

オイラは、やっぱりわけありで、もっと大きな円盤にしたいって、駄々をこねる。親方は、不審げな顔ながらも、直径13cmくらいの円盤を、鉄板から切り抜いてくれた。本当は、直径17cmくらいのが欲しかったんだけど、そこまでは言いそびれてしまった。オイラはいつも遠慮した挙げ句、後悔する。わがままついでなのにね。


切り出した円盤の切り口を整形してくれる親方。その横で、かしこまって、見ているライネケ。目上、指導者、世話人、そういう人には礼を尽くすもんだ。

切り出してもらった鉄の円盤を、凹んだ鉄のカナトコの上で、一生懸命叩くと、受け皿が出来る。親方は、つち目が入った方が面白いと言うが、自分で思ったようにつち目をいれるのは難しいし、筋力も要って、大変だ。

そいつの真ん中に穴を開けて、燭台の心棒で貫いて、溶接して固定する。

出来上がり!

ライネケだけの、蚊取り線香台

把っ手がついて、立ち上がりにネジリが三回入れてあって、大きな受け皿のついた、蚊取り線香台。
どうかな。ちょっと好くない?

やはり、あと2cm半径を大きくしてもらえばよかった。でも、それだけでは、台座部分とのバランスが悪くなるな。台座をもっと大きな「のノ字」にし、もう少し、受け皿を下にし、線香を突き刺す部分も受け皿に近く低くすればよいだろうね。

真っ赤に燃えるコークスと赤熱された鉄に見入るライネケ親子。人は火に惹かれるのだ。

左から、Chica、ライネケ、Harunoの作品。突き刺してあるのは、内子の和ロウソク。Chicaさんの作品には植物を感じるし、ライネケは、日常生活で何に使えるだろうか、と常に実用性を考えてしまう傾向があるようだ。Haruno君のは、何か自分らしいものを表現したいんだけど、今ひとつ満足出来ない所が残ったようだな。人それぞれなのかもしれん。

Chikaは、東京の渋谷で植物関係の職場で働いている。Harunoは大学生5年生で高知にいる。仙台のSoraninと東京のShigeとも夏休みには逢えるかな。たった、2・3日だけど、時には、こうして子ども達と過ごせるのは、幸せと言わねばならない。ほんの数年前まで、一家6人が揃って、食べたり、どこかに行ったり、当たり前だったのに、今は、これから全員揃うなんて、あと何回あるだろう、と考えてしまうようになった。

最後は、ひょっとして、オイラの葬式の時とか。「あの時は、本当に怖かったよ。ライネケ父さんは、静かだったけど、顔を見られなかった。」とか言って、彼らが笑いあう日が来るのだろうか。オイラも棺桶の中で彼らの話を聞いて笑おう。最後に一家6人揃って笑う日。その時は皆集まって欲しい。

2009年6月9日火曜日

北陸地区特派員だより <ライネケ院長>

ついに、本ブログにも特派員ができた。今回の隠密特派員は金沢在住の Professor Mochi-mochi氏です。彼の最近の探索による発見物を紹介します。

MochiMochi氏が金沢市の辺りをほっつき歩いていると、こんなものに出くわしたって。
おやおや、これは、これは。
「ヒデヨシ」ではないか。

こんなところに、「ヒデヨシ」がいたんだね。

喫茶「アタゴオル」っていうらしいな。なかなか好い雰囲気ではないか。扉の前の、「ヒデヨシ」が、湯気の立つ黒いカップをささげている看板もいいねえ。残念ながら閉店しちゃったみたいだね。

昔は喫茶店には、随分、金を使ってしまったけど、今は、自分で豆を炒って、コーヒーをいれるので、まず喫茶店には行かないね。行くとしても、ドトールコーヒーくらいかな。どんな喫茶店に行っても、それほどかわりばえするコーヒーが出てくるわけではないからね。

我家にも漫画はあり、マスムラヒロシのアタゴオル物や宮沢賢治物と、畑中純の「まんだら屋の良太」の大部分が書棚に並んでいる。いずれも30年前後前買ったものだ。他に漫画関係のものは、宮崎駿の作品群くらいかな。

「ヒデヨシ」との出会いは、1978年、京都で医師国家試験の勉強会を開いていたころ、O氏の下宿先で、漫画雑誌「少年」の切り取りの束を見つけた時だね。妙な、太った猫が、破天荒で好き放題に振る舞うんだが。「ますむら ひろし」という若手の漫画家の作品だった。
ヒデヨシは雄なんだと思うけど、妙に女性的な面もあったりして、よく分からんところがある。後足二本立ち直立歩行する。ヨネザード地方のアタゴオルという地域にちゃんと自分の家を持って住んでいるという。多分、ますむら氏の出身地である山形県米沢市の愛宕山にちなんだ、宮沢賢治のイーハトーブみたいな所なんだろう。


彼の代表作「アタゴオルは猫の森」

赤い頭巾のヒデヨシとその友人のテンプラが鮮やかな緑色の葉の上で踊っている。アタゴオルの住人仲間達も見える。

そのころのますむら氏はビートルズのファンだったと見えて、至る所にビートルズの歌詞らしき呪文が出て来る。

マスムラヒロシっていう人もかなりの変わり者らしくって、一度京都に来るっていうので、京都下白川通の某喫茶店だったかなんかの地下のホールに遊びに行った。その時、ネコパコは買ったばかりの「アタゴオルは猫の森」を持って行って、サインしてもらった。1980年3月、「岩崎さんへ」っていうのはネコパコ事務長の旧姓だ。

春の夜の半地下にあったステージ上で、マスムラさんはギターを弾いて、声張り上げて、歌ったんだけど、

「月の光に〜、照らされて〜、見上げりゃ〜、空には〜、銀の星〜。
さあっさ〜、踊ろよ〜、長い髪を〜、振り動かして〜え〜。
さあっさ〜、踊ろお〜っ、夜明っけっまあでえ〜っ。
タラッタ・ラッタ・ラッタ・ラッタ・ラッタア〜!」

というもので、
ナマケモノのヒデヨシそのものだった彼は、当時、
「ああ〜、音楽だけで食って行けたらなあ〜。」
なんぞと言っていたけど、はっきり言って、我々はステージの上でギターを弾いてるナイーブそうな青年の彼を見ながら、これがビートルズをあがめ、音楽で食って行きたいと言うマスムラヒロシの音楽なのか、とあきれたよ。
やっぱり、あんたは、音楽より、漫画かイラストで、食って行きなさい。今なお、メロディー付きで思い出すけど、今思い出しても、おかしい。ありゃなんだったの? ワハハハははああああ〜!!。ごめんよ、マスムラさん。気を悪くしないでください。


























「永遠なる瞳の群れ」に彼の初期の作品が収録されているのだが、彼の作品の随所にビートルズの影響が濃厚に表れている。彼のイラストレータあるいは、デザイナーとしてのセンスの良さがよく分かる。

極めてナイーブな人柄らしくて、マスムラヒロシ・ファンクラブってあったんだけど、その主要メンバーのファンクラブ運営方針が嫌だったらしく、彼自身が降りちゃったので解散してしまった、というような事があった。何となく、分かるよ。その嫌だった状況や彼の気分が。

今の彼は、ヒデヨシが宣伝の登場人物として使われたり、随分メイジャーな存在になって、結構楽しく、豊かに暮らしてるんじゃないかな、と、勝手に想像しているのだが。間違っていたら、マスムラさん、ごめんなさい。ヒデヨシなら、「紅マグロ何匹かくれるんなら、肖像権くらい幾らでも売るぜ。」って言いそうだ。

彼の初期の作品の中には、現代文明批判というか、地球上最悪の生き物としての人類批判、ビートルズ的なもの、ロック的なもの、ヒッピー文化に対する賛同、破れかぶれで野性的なエネルギー、その一方で神経質でナイーブな、時に繊細すぎて脆い、大人文明に不信感を募らせる子どもの心、そういったものに満ちている。

アタゴオルのヒデヨシの家。

こんな家があったら、住んでみたいと思うだろう? 

緑の森や原っぱと降り注ぐ太陽、透き通った月の光、青い色の冷たい風。葉っぱや花びらの一枚一枚、毛の一筋一筋が丁寧に書き込まれた彼の挿絵に、今なお、私たちは、失われつつある何かを見いだそうとしてしまう。










梅雨の雨上がりの午後、再び日の光がさして来たとき、耳を澄ましてごらん。どこか遥か彼方から歌声が聞こえて来ないか?


THE LONG AND WINDING ROAD 
THAT LEADS TO YOUR DOOR
WILL NEVER DISAPPEAR.
I'VE SEEN THAT ROAD BEFORE.
IT ALWAYS LEADS ME HERE.
LEAD ME TO YOUR DOOR.

"The Long and Winding Road"
Lennon and McCartney   1970

りみ つう よお どおおおお〜
いぇ いぇ いぇい いぇい いぇ〜〜

(じ〜ん、きまったな・・・。)


追記:Professor Mochi-mochi、いや、M君。元気にしてますか? 奥さんも元気? あの頃、君も私も若かった。オートバイで一緒に走ったり。あのころを思い出すと胸が苦しくなります。緑、太陽、自由。そして若さ。あのころ、私は、大人っていうのがこの程度のものならば、いつまでも大人にならないでいよう、と思いました。でも、いつしか年が経ち、私たちもかなり年寄りになって来ました。M君がいつまでも青年でいてくださるよう、そして、私がこのまま子どもで在り続けられるよう、祈ります。奥さんによろしく。