拝啓
本日、「ラテン詩人水野有庸の軌跡」のご本とディスクを受け取りました。電話で差し上げた私の厚かましいお願いを、このように早く、聞き入れて頂いたことに、とにもかくにも、感謝申し上げたいと思い、筆をとりました。
皆さんがあの本にお寄せになっておられるようなお気持ちと重なるので、今さらと、うるさくお思いになられると思いますが、あえて、書き綴る次第です。
私は、昭和47年、京大医学部に入学して、昭和53年卒業しました。その後、各地の病院に皮膚科医として勤めたあと、4年前より、郷里の愛媛県に戻って、自宅で皮膚科の小さな医院を開業して暮らしています。
水野先生の授業を受けたのは、昭和48年の春からでした。私は医学部の教養部の二回生でした。文学部の教務受付に行って、ラテン語4時間コースを医学部の学生が受けることができるのか、と質問に行きました。「ああ、もちろん受講できます。単位も取れますよ。」と言う事務官が微笑を浮かべたような気がしました。そして、いよいよ、授業が始まって、事務官の微笑の意味が分かった気がしました。
五月開講初日のノート第1ページ目。ラテン文字とイタリア半島。
夏休みが終わって、後期の最初の授業に出てみれば、開講時30人前後いた前期受講生のうち生き残ったのは、なんと、たったの2人に過ぎず、前年の挫折組3人ほどが加わって、5人ほどで授業が続きました。
私は、教養部二回生でしたから、ラテン語のほかに、英語、ドイツ語とフランス語の授業も受けておりました。でも、一年間というもの、自宅学習のほとんどの時間はラテン語の予習に費やしました。英独仏は片手間で受講したような感じでしたが、全部楽々と優をいただきました。でも、ラテン語の授業は本当に苦しかったです。
最初の授業のラテン語の発音例で、先生が、ウェルギリウスやオウィディウス、ホラーチーウスの詩を板書なさり、例の調子で、朗唱をされ、初めて聞く古典ラテン語の響きにびっくりもし、感動もしたこと、日が短くなって、夕方6時ころ、懐中電灯をつけてトイレに行き、パンをかじって授業を続けたこと、毎回、夜8時を過ぎて、すでに施錠された本学の北門を乗り越えて、今出川通を下宿に帰ったこと、いよいよ後期になり、もうカエサルとキケロの散文とホラーチーウスやウェルギリウスの詩の和訳だけで手一杯で、詩のreconstructionにまでは、まったく予習の手が回らず、授業では、仏文科の女性が黒板で回答を書くのを唖然として眺め、先生がそれを直すのを、ノートに写すだけ、という状態に追い込まれたこと、そんなことを昨日のように思い出します。
完膚なきまでに朱の入った予習ノート。HORATI FLACCI CARMINUM LIBER Ⅰ greater asclepiad 「賢くあれ。葡萄酒を漉し、時間のけちくさい限度内なのだから、長過ぎる希望は切り詰めよ。我々が今こうしてしゃべっているうちに人生の時間は逃げて行ってしまっているだろう。明日にはできるだけ信頼を置かず、今日一日を楽しみなさい。」
文学部の4回生の人だかが、すごく優秀で、先生の修辞法に関する質問に、さっと解答され、感心ばかりしていたような気がします。
あの方達は、きっとあれからさらに、研鑽を積まれ、それぞれの分野で、立派なお仕事をなさっておられることと思います。水野先生の授業は、きっと、彼らにとっても、特別の輝きを持って記憶に残っていることだろうと思います。
私は、羅英辞典を引いても英語自体に苦労するような状態で、溜め息をつきつき、間違いだらけの自分の訳文に朱を入れながら、半分意地になりながら、それでいて、この授業が、何か自分の教養に対する渇望を満たしてくれる奇跡のように感じながら、引きずられるように授業について行きました。
先述の優秀だった仏文科の女性に付き合うように、彼女の彼氏が一緒に出席していましたが、ある時、彼の訳文が、何かの既成の翻訳からの引き写しであることを先生が察知されて、厳しくお叱りになり、横で私は、彼を気の毒に思いながらも、ずるいことはしてはいけない、非力であっても、自分を尽くそう、と気を引き締めたのでした。
1974年1月に行われた1973年度の二回目の試験。問題を見た瞬間、「駄目だ、こりゃ。」ゼーッタイ、駄目。英語の試験ですら、こんな高級なのなかった。光栄だけど、すみません、ごめんなさい、不出来な弟子で申し訳ありません。情けないやら、恥ずかしいやら、空しく長い試験時間が本当に苦しく辛かった。ちなみにこの詩はHoratius、 韻律はSapphic。覚えてるわけないよ。あらためてごめんなさい。先生。
そんな出来の悪い私でしたので、二回のテストでは、まったく自分では落第だと思ったにも関わらず、80点以上をいただき、べらぼうな高下駄を履かせて下さった先生のお優しさが身に沁みました。それにつけても、ホラーチーウスやオウィディウスを訳される先生のお言葉に、時に人間に対する優しさやユーモアが垣間みられたことを思い出します。単なる学究の徒ではない人間味溢れる何かに触れた気がいたしました。
先ほど一寸申し上げましたように、私は、ある種の教養みたいなものに対する憧れを抱いて、京都大学に入学しました。しかし、意外にも、その渇望に応えてくれるほどの人物、授業には行き当たらず、少なからず、失望していた所でしたが、先生の授業に行き当たったのは、丁度そのようなころだったわけです。
その後、私は、医学部を卒業し、京大病院から、大阪赤十字病院、滋賀医科大学と職場が移り、倉敷中央病院に赴任することになり、1990年の春、いよいよ慣れ親しんだ京都滋賀から離れるという時になって、水野先生の授業は私の青春のモニュメントとも言えるということに思い至り、文法書を開き、字引を引き引き、厚かましくも、恥ずかしくも、ラテン語と言えないようなラテン語作文をして、先生に、おそばを離れるにあたって、私の蒙を啓いて下さったことに感謝申し上げる次第を書き送りました。
恥ずかしながら、生まれて初めて書いたラテン語もどきの手紙。先生の朱筆が一杯で、それでも足りずに、先生から手紙で追加が・・・。便箋に収まりきらない情熱が余白に縦横にあふれているさまを見よ。さらに、さらに、それでも足らずに電話が・・・!
そうしましたら、いきなり電話があって、「君には私がきちんと教える義務があるから、是非、某月某日、自宅に来なさい。」とおっしゃるではありませんか。
あのラテン語の授業の年以来、すでに、13年間が経っておりました。以来、ラテン語の復習もろくにしていない私のごとき劣等生に先生はどんなにがっかりされるだろう、とおそるおそる先生のご自宅におうかがいしました。
先生は、例のごとく熱にうかされたようにラテン語について語られ、先生の勉強部屋にもあげて頂き、奥様にもお目にかかり、夕方になってようやく解放されたというか、すっかり私は圧倒され、感激して引き上げた次第でした。
その後、一度、京都府立医科大学病院に入院中の先生にお目にかかりに行ったこともございました。先生は、医者のラテン語知らずと不勉強について、すっかりお冠のようで、私は、仲間である医者に対する弁護の言葉を失いました。今となっては懐かしくもあり、さびしくもある思い出となりました。
今や、私も59歳になりました。あの授業の日々から、ほとんど、40年近くが経ったのです。今は、忙しい基幹病院から離れて、故郷の海辺の小さな町で、隠れ家みたいな皮膚科の医院を運営しながら、家内と二人ひっそりと暮らしています。青春の憧れは遠く去り、老いを迎えるにあたって、ふと思い浮かべるのは、ホラーチーウスの詩の断片であったり、先生の授業の日々の思い出です。
この年賀状をもらえることが、最後まで授業について行った学生の勲章だった。昭和51年元日。KAL. IAN. A.V.C. MMDCCXXIX 試験にも出た悪夢みたいな日付の書き方。ローマ建都を基準として2729年。つまり753を引いて、西暦1976年ということになる。よかった、合ってる。この歳の賀状は三好達治の文語詩の水野先生のラテン語訳で、「願はくば わがおくつきに・・・」という原詩が重ね刷りされている。
先生のラテン語詩の印刷された年賀状をいただけなくなり、先生はどうしておられるのか、毎年のように思いながら、消息をうかがえるような文学部の友人などいないままに月日が過ぎました。そして、昨年、インターネットで、たまたま、山口の安渓先生のページを見ていて、先生が亡くなられたことを知りました。そして、さらに、この本が出版されたことを知りました。
是非、このご本を手に入れなければならない、と思ったのは、出来が悪くはあっても、私も先生の弟子の一人であると思ったからです。
私の宝物
あの授業の時に作ったノート類は、今も宝のように私の手元にあり、憧れに満ちた青春のモニュメントであり、生の証しとなりました。先生のラテン詩の朗唱の名調子は、ことあるごとに私の記憶に蘇って、先生が私たちの中に生きておられることを実感します。
At nos hinc alii sitientis ibimus Afros
アトノー シンカリ イー シティエンティー シービム サーフロース
pars Scytiam et rapidum cretae veniemus Oaxen
パルス スキュティ エト ラピヅム クレータエ ウェニエームソ アクセーン
(5月開講時の授業で、生まれて初めて耳にしたラテン詩であるVergilius Bucolica 1,64-65)
このページに見覚えのある人は多いはずだ。長短短格6韻脚 dactylic hexameter 生まれてはじめて見、聴いたラテン詩の響き
先生、本当にありがとうございました。長い間、お疲れさまでした。どうか、安らかにお休み下さい。
ご本の「はじめに」の冒頭の
「何人も私を涙で飾るなかれ。また泣きつつの葬儀をなすなかれ。 何故? 私は生きていて人士たちの口々の上を飛び回っているゆえに。」
というEnniusの詩句のとおり、先生は、多くの心ある人士の間で伝説のように語り継がれることでしょう。でも、こう書いている私の心の中を何か熱いものがあふれ流れるのをお許し下さい。
まとまりのないことを、くだくだしく書いてしまいました。どうか、先生の奥様にもよろしくお伝え下さいませ。
いよいよ、寒くなって参りました。皆様、お体に気を付けて、良き新年を迎えられるようお祈りします。